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(150)上御霊神社(京都市上京区)

非業の親王ら鎮魂
平安遷都のころ、非業の死を遂げた人々をまつる上御霊神社。鎮魂は今も続き町は栄える(京都市上京区)
 京都市上京区の相国寺北に鎮座する上御霊神社(御霊神社)は、奈良末期から平安初期に政争に巻き込まれて非業の死を遂げた親王ら八人を祭神とする。当時、都を襲った災厄を彼らの怨霊(おんりょう)のたたりと考える「御霊信仰」が貴族や民間に浸透し、怒りを鎮めようと御霊会などを催した。神社はその伝統を今に伝える。
 祭神の筆頭は桓武天皇の実弟、早良(さわら)親王。奈良末期、長岡京で都の造営責任者藤原種継が暗殺された。犯行は大伴氏一派だったが、直前に死去した大伴家持が皇太子早良親王が暮らしていた春宮(とうぐう)坊の長官だったために罪を着せられた。乙訓寺に幽閉された親王は飲食を断ち、淡路島への流刑途中で息絶えた。
 ところがこの後、桓武天皇の皇后や皇太后らが次々と死亡し、早良親王のたたりとされた。「皇室にとどまらず社会不安が増大し、桓武天皇も見過ごせなくなったのでしょう」と、上御霊神社の小栗栖元徳宮司は話す。桓武天皇はついに、平安京への遷都を決意する。
 桓武天皇はまた、親王に崇道天皇の追号を送った。自分と親王のおいで伊予に流刑中の五百枝王(いおえおう)に遺骨を大和へ持ち帰ってもらい、手厚く葬ったという。墓は崇道天皇八嶋陵(奈良市)として現存する。五百枝王は上御霊神社の初代神官に就き、宮司を務める小栗栖家はその子孫といい、長く鎮魂を続けてきた。
 神社の歴史は、平安京以前にもさかのぼる。境内には、延喜式に記載の上出雲寺があった。平安京より百年近く古い白鳳時代の瓦が見つかったり、平安時代の文献に「上出雲御霊堂」で国家鎮護の供養をしたとあるなど、証拠もそろってきた。上出雲寺は今昔物語集にも登場し、平安末期には廃れ始めたとされる。「まず上出雲寺があり、現代に上御霊神社としてつながっているとみる方が自然では」と小栗栖宮司は推し量る。
 ともあれ、早良親王ら祭神たちは「怨霊」から「御霊」となり、千二百年の長きにわたって京都を守っている。セミ捕りの子どもや参拝客、観光客らがちらほら訪れる境内は、約百メートル西の烏丸通のざわめきがうそのように静かで、参拝客のかしわ手を打つ音が響いていた。
【メモ】祭神は早良親王のほか、井上内親王、他戸親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麿、火雷神、吉備真備だが、火雷神は菅原道真とするなど諸説ある。応仁の乱(1467−77)では東軍の畠山政長が境内に布陣し戦乱の口火を切った。毎年5月1−18日に御霊祭を営む。5月を除く毎月18日には境内で「囀(さえずり)市」がある。参拝自由。下御霊神社(中京区)、祟道神社(左京区)も早良親王をまつる。

【2007年9月7日掲載】

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