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(152)玉川の駒岩(井手町井手)

治水を祈願し奉納
玉川のほとりに鎮座する駒岩(井手町井手)
 車道をそれて草木が生い茂る小道に入る。川の水しぶきがこだまする玉川のほとりに巨大な岩が鎮座する。重さ数百トン、高さ約五メートルの岩は駒岩(こまいわ)と呼ばれる。岩の裏手に回りこみ、下から岩肌を見上げると頭を右にした全長約一メートルの馬の絵が刻まれているのが見える。
 玉津岡神社略記によると、平安時代の一一三七(保延三)年五月六日に彫られた。二本の大きな杉の神木と祠(ほこら)を祭る玉津岡神社の飛び地境内に、岩は奉納されていた。この場所で五穀豊穣(ほうじょう)を願う雨ごいや玉川の治水を祈願し神事を営んだ。
 ちょうど玉川水系の水を農業用水として町内に分ける水の基点と重なる。岩は次第に「左馬(ひだりうま)」と呼ばれるようになる。一説によると「左利き」の人が描いたから馬頭が右向きに描かれていると考えられたのが「左」の由来。「左利き」=「器用」との連想から、芸事や習い事の守り神になったのではないかと伝わる。
 裁縫、舞踊など芸事に携わる人が多く参詣した。「昔は芸妓さんがかごに乗ってお参りに来ていたと母から聞いています」と、同神社の前宮司の妻、大西洋子さん(七一)は話す。
 当時駒岩があった場所と現在の位置とは異なる。もとは道路を挟んだ反対側、玉川左岸の山の中腹にあった。それが一九五三年八月、南山城地方を襲った大水害で上流の大正池や玉川が決壊した。
 押し寄せる水流にこの巨岩も流され、現在の場所に転がり落ちた。祠は流失し、岩のほとんどは砂利に埋もれた。かろうじて岩の上部が見えるものの、馬の姿はすっかり隠れてしまった。
 砂利にうずもれた駒岩が地表に現れたのは、八八年から当時の竹下内閣の「ふるさと創生基金」を使って、町が進めた史跡整備だった。駒岩も対象となり、岩の周囲が掘り下げられた。
 「馬の絵が消えてないか」と住民は心配したが、姿を現した岩は、彫刻面が下を向いてはいるものの、馬の絵を残していた。その後、絵が正面を向くようクレーン車で持ち上げて向きを変える案もあったが、花こう岩でできた岩が崩れないよう、そのままにしてある。
 水を分け、治水をつかさどる神社の象徴の駒岩。水害で一度は転がり落ちたものの、割れることなく馬の彫刻を残し、どっしり構える姿は、水害から立ち直った町の気概を今に伝えている。
【メモ】駒岩まではJR奈良線玉水駅を降りて東へ約2キロ。「左馬ふれあい公園」の奥に駒岩がある。舞踊や茶道など「女芸上達の神」としての信仰もあつい。五穀豊穣と治水を祈願する「水分祭」は現在、7月の第1日曜に玉津岡神社で営まれている。同神社の宝物庫も大水害の被害を受け、神社の由来に関する詳しい資料は残っていない。

【2007年9月12日掲載】

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