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(154)一夜伏塚(草津市)

僧兵らの合戦伝承
水田が広がる一画に今も残る一夜伏塚(草津市片岡町)
 草津市片岡町に広がる田園の中に小さな塚がある。一辺が約七メートルの四角形で、高さは子どもの背丈ほどの約一・四メートル。土がこんもりと盛られている。すぐ脇を農道が通り、地元の人が犬の散歩で通り過ぎていくのどかな場所だ。塚は「一夜伏塚(いちやふしづか)」と呼ばれてきた。
 一三三五(建武二)年十二月から翌一月にかけてのこと。後醍醐天皇による「建武の新政」に反旗を翻した足利尊氏の軍勢が京都に迫っていた。これを阻止するため、塚近くの伊岐代(いぎしろ)宮(現印岐志呂(いぎしろ)神社)に陣を構えたのが、比叡山の僧宥覚(ゆうかく)だった。現在の大津市瀬田まで攻め上ってきた足利勢を背後から突こうと、僧兵千余人を率いて神社に堀をめぐらせ、やぐらを立てた急ごしらえの城に立てこもったのだった。
 しかし、足利勢は反転。尊氏側近の高師直(こうのもろなお)を大将とする大軍が攻め寄せてくると、僧兵らの奮闘もむなしく、一夜にして攻め落とされた。
 この時、討ち死にした宥覚を葬った墓が一夜伏塚といわれてきた。
 「幼いころ、大昔の戦で敗れた者の遺体が埋まっているという言い伝えを聞かされた。当時の塚は竹やぶだったこともあって、好んで近づく場所ではなかった」と、草津市片岡町の元町内会長の片岡恒さん(七四)は話してくれた。
 しかし、市教委が二〇〇一年に印岐志呂神社の依頼で発掘調査したところ、古墳時代の須恵器や鎌倉時代の土器などが出土したが、埋葬にかかわる遺物は確認されなかった。
 宥覚の墓と伝えるのは、明治時代に書かれた「近江国栗太郡片岡村誌」(一八八四年)。南北朝時代の歴史物語「梅松論」や軍記「太平記」には合戦の記録はあるが、塚の記述はない。
 市文化財保護課の小宮猛幸さん(四五)は「塚は村区域の目印として作られた可能性がある。塚が壊されることのないように、衝撃的な合戦と結びつけて伝承されてきたのでは」と話す。
 農道に立ち、一夜伏塚を眺めると、対岸に比叡山の山並みが見える。宥覚は戦いに敗れたが、塚は今も残る。片岡さんは「埋葬品は発見されなかったが、地区の歴史として伝承していきたい」と話した。
【メモ】一夜伏塚はJR草津駅から近江鉄道バス「片岡」下車、徒歩5分。「ひとよふし」「いちやぶし」など呼び方はさまざまで、僧宥覚は「祐覚」とも記される。北約200メートルに印岐志呂神社がある。問い合わせは市文化財保護課TEL077(561)2429。

【2007年9月14日掲載】

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