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(156)狩り場のロマンス(京都市山科区)

道に迷い結婚約束
高藤と列子が恋を語らった景色? 市指定名勝の勧修寺庭園(京都市山科区)
 今は昔、藤原冬嗣の孫で高藤という人がいた。十五、六歳のある日、タカ狩りに出かけた南山科で嵐に遭い道に迷った。人家を見つけ、雨宿りに立ち寄ると、そこに十三、四歳のかわいい娘がいた。一夜を過ごし、結婚の約束をして帰る。
 だが、恋い焦がれつつ六年の歳月が過ぎた。再びそこを訪れたとき、美しく成長した娘と自分とよく似た五、六歳の女の子がいた。
 その家の主は、郡の長官、宮道弥益(みやじいやます)。その娘(列子(たまこ))を嫁に迎えた高藤は内大臣に出世。女の子(胤子(たねこ))は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生んだ。弥益の家は寺となり、皇室や藤原氏の庇護(ひご)のもと栄えた−。今昔物語が伝える京都市山科区の勧修寺(かじゅうじ)創建にまつわる話だ。日本版シンデレラ。寺では「玉の輿(こし)に乗る」という言葉もここから出たと伝える。
 源氏物語の作者、紫式部は、実はこの高藤の子孫。筑波常遍住職(七二)は「高藤が結婚の約束を守らなければ、醍醐天皇も紫式部もいなかった。約束を守ることの大切さを教える話」と話す。
 東山区へ抜ける山道を、馬ならぬ自転車で越えると、京の中心部へ約一時間。タカ狩りは、現代なら「ちょっと琵琶湖へバス釣り」といった感覚だろうか。気軽な貴族の楽しみから生じたロマンスだ。
 果たして物語の通り、本当に素朴な純愛だったのか。最近の研究では、歴史上の宮道氏は、実務能力に優れた下級官僚で、郡の長官だったかどうかは不明とのこと。あるいは何らかの政略が隠されていたのかもしれない。高藤を祖とする藤原・勧修寺家や宮道氏はその後も栄えた。蜷川虎三元京都府知事は宮道氏の子孫と語っていたという。
 市指定名勝の庭園は、樹齢七百五十年のハイビャクシンや樹齢千年ともいう大杉があり、平安時代以来の池にはハスの花が咲きそろう。借景の醍醐の山に庭が溶け合う様子は、平安時代もかくやと思わせる。「高藤さんと列子さんが二人で見た景色かもしれませんね」と筑波住職。
 近くに、小野小町と深草少将の悲恋で知られる隨心院もあり、さながら、恋の里。「あちらの恋は実りませんでしたが、こちらの恋は実りましたよ」。さてさて、勧修寺さんにおすがりすれば、かなわぬ恋もかなうか?
【メモ】勧修寺は900年に醍醐天皇が母胤子の追善のため造営。南隣に宮道弥益や列子、藤原高藤らを祭る宮道神社がある。一帯は醍醐寺や醍醐天皇陵もあり、醍醐天皇との関係は深い。地下鉄東西線小野駅から徒歩10分。拝観料は大人400円。

【2007年9月20日掲載】

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