京都新聞TOP > 観光アーカイブ >ふるさと昔語り
インデックス

(160)六角獄舎の悲劇(京都市中京区)

幕末志士らを斬首
勤王志士を悼んで建立された忠霊塔(京都市中京区)
 政治の主導権をめぐり、混迷を深める幕末の京都。会津、薩摩藩によるクーデター「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が巻き返しを図って京のまちに進軍した。一八六四(元治元)年七月の禁門の変。市中は大火に包まれた。この時、多くの政治犯が収容されていた六角獄舎で、悲劇は起こった。
 長州軍と御所を守る諸藩との激しい攻防により、そこかしこに火の手が上がる。衰えを見せぬ火勢は六角獄舎にも迫った。獄舎には当時、生野の変に敗れて投獄された尊王攘夷(じょうい)派の指導者、平野国臣ら未決囚が収容されていた。「混乱に乗じて、逃亡されるのではないか」。不安に駆られた幕府の役人は有罪か無罪の判決を待たずに、獄中の三十数人を次々と斬首(ざんしゅ)した。
 悲劇の地は今、民間の法人が運営する更生保護施設になっている。六角通から路地に入ると、施設の入り口近くに「殉難勤王志士忠霊塔」と刻まれた石碑が見える。平野国臣ら志士たちを悼み、一九四〇年に建立されたという。
 施設内には、かつて囚人の斬首に使った刀を洗ったとされる「首洗いの井戸」の跡も残る。改築の際に井戸そのものは撤去したが、井げた部分だけは庭の一角に移設したという。岡先彬喜施設長(六六)は「少し気味が悪いですか。以前は、宿直の学生アルバイトたちが金縛りになったとか、ふすまに人影が映ったとか、いろいろうわさをしていました。でも、歴史の証しとして大切にしたい」と話す。お盆には毎年、志士も含め、この地で亡くなった人たちの法要を営んでいる。
 獄舎は明治維新後、二条城近くに移り、その後、山科に移転し、今は京都刑務所になっている。一方、六角獄舎もしばらくは分監として利用されたが、その後、法人の前身の団体に譲渡された。
 施設では、刑を終えたり、仮出所したけれど身寄りがない人たちが暮らしている。岡先施設長は「かつては罪人を罰し、数々の悲劇も伝わるこの地は、一度、社会で失敗を犯した人たちの更生と社会復帰を支える場所に生まれ変わった。不思議な巡り合わせを感じます」と語る。
【メモ】古い図面によると、獄舎の敷地は東西約65メートル、南北約50メートル。周囲には堀を巡らし、内部は一般牢(ろう)やキリシタン牢、女牢などに分かれていた。獄舎では、日本初の遺体解剖が行われ、その記録を「蔵志」にまとめた医師山脇東洋の業績をたたえる碑も敷地内に立っている。

【2007年9月28日掲載】

各ページの記事・写真は転用を禁じます。著作権は京都新聞社に帰属します
ネットワーク上の著作権について 新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に(日本新聞協会)
電子メディアおよび関連事業における個人情報の取り扱いについて
京都新聞TOPへ