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(170)馬垣(与謝野町)

宮津藩の軍馬牧場v
「馬垣」の内側の堀を歩く郷土史家の杉本利一さん(与謝野町の大江山山ろく)
 京都府与謝野町金屋の郷土史家の杉本利一さん(82)が、笛を「ピーッ」と吹きながら同町滝の大江山山中に分け入る。腰にはクマよけの大きな鈴を三つぶら下げている。「ガランガラン」の音を聞きながら、一緒に後をついていくと、突然前方を横切る堀と石積み土塁の「馬垣(うまがき)」が現れた。
 大江山のふもとに住むお年寄りには、「山の中で宮津の殿様の馬を飼っていた」と伝え聞いた人たちがいる。同町金屋の森垣勤さん(81)は明治初めの有力な牛馬商の孫にあたる。「馬が逃げない柵のようなものが昔あったと、子どものころに聞いた」と言う。
 杉本さんもその一人。郷土史の調査中、安土桃山時代から幕末までの宮津の歴史について書かれた「宮津事跡記」などに、外国船が日本近海に姿を見せ、幕府が海防強化を行っていた時期に、宮津藩主の本庄宗秀が軍馬五十四頭を買い入れ、牧場で放牧を始めた、と記されていることを知った。
 また、「与謝郡誌」(大正十二年刊)に、牧場は周囲二里余り(約八キロ)に及び、現在の宮津市付近にあった牧場を、同町滝付近に移したという記述があることも分かった。
 杉本さんは、子どものころから聞いた伝承を史実にしようと、古文書などの資料の読み直しや馬垣の測量を行い、この堀と石積み土塁が「馬垣」と推定。与謝野町金屋、滝、与謝にまたがり、一・五メートルほど地面を掘り下げて、その土を高さ一メートルほど盛り上げて土塁を築いたとみている。
 当時、軍馬が駆けたという牧場は、木々がうっそうと生い茂り、今は馬垣からしのばれるだけ。現在は壊れている部分も多く、盛り上げた土は約六十センチほどに低くなり、堀もかなり埋まっている。
 杉本さんは「宮津藩の軍馬牧場がいつ造られたのかはまだ不明だが、廃藩置県とともに幕を閉じた。『宮津藩政記録』には、滝村の農民が牧場のせいで肥料となる草刈り場が狭くなり、勝手に牧場に入って刈り取っていたという話もあっておもしろい」と話す。
 「ただ、これほどのものを八キロにわたり、急に造るのは難しかったのではないか」と軍馬牧場になる前に江戸末期以前から牧場があった可能性も示唆。「今後も『馬垣』の謎を解き明かしたい」と話している。
【メモ】「馬垣」は大江山山ろくの与謝野町金屋、滝、与謝にまたがっていたとみられる。険しいけもの道を歩かねばならず、クマの出没があるため、行くのは危険。来春刊行の「両丹地方史75号」に詳しい研究結果が掲載される予定。500円。問い合わせは福知山史談会事務局TEL0773(22)1140へ。

【2007年10月18日掲載】

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