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(174)白米塚(高島市今津町北仰)

義経伝承が信仰に
義経の一行が落ち延びる途中、集落で一夜を過ごしたことを伝える白米塚(高島市今津町北仰)
 兄の源頼朝に追われ奥州に逃げる際に義経一行が一夜の宿を求めたという言い伝えがあるのが白米塚だ。昼間でも人通りがほとんどない集落の中心にあり、民家に隣接する共有地にひっそりとある。塚の底面は長い方の直径が八メートルほどの楕円(だえん)形で、高さは人の身長ほどしかない。由来を説明する看板はないが、近くの運動公園のフェンスに掲げられた集落の案内板に場所が示されている。
 「今津町史第一巻」には、伝承として名前の由来が記載されている。「義経が、従者数人とともに北仰(きとげ)の津野神社に現れ、一夜の宿を請うたことがあった。同情した村人は、白米や野菜でもてなした。翌朝、落ち武者の一行は、感謝の印に村人に太刀を与え、海津方面へと落ち延びていった。北仰の人々はその太刀を、彼らの食べ残した白米とともに埋め、塚を築いた。また、一説には、武士たちの残した白米一粒一粒に、この地の僧が『南無阿弥陀(あみだ)仏』の名号を書き込んで土中に埋めたものだともいわれている」と指摘している。
 さらに、「近江の伝説」(渡辺守順編著、第一法規)には「貞享二(一六八五)年に幸福寺の良瑞が法華経の一字一石を埋め、塚の中央に『太平好豊一字一石』の碑を建てたので別名経塚ともいう」と記している。
 地元の歴史を調べている近くに住む木田鶴雄さん(79)は、白米塚の由来を子どものころ、親や子ども同士の話から自然に知った、という。六年ほど前には近くの今津北小の児童約五十人に現地説明したこともある。「平安時代には末法思想から米にお経を書く習慣があった。それに、判官びいきで義経ファンが多くいて、ここに寄っていてくれたらという思いが結び付いて伝承が生まれたのでは」と話す。
 子どものころは、親から白米塚には登ったら、駄目だぞと言われていたが遊び場がなかったのでスキーで滑ったこともある。戦前には、お盆に坊さんが塚の前でお経を上げていたことを覚えている。江戸時代末に白米塚が盗掘された時、刀は出土しなかったが炭化したコメが出てきた、とも伝わっている。「ある種の古代信仰。前を通ると敬虔(けいけん)な気持ちになり、歴史のロマンを感じる」。
【メモ】JR近江今津駅から北に約3キロ。車なら今津北小を目標にすれば分かりやすい。集落の入り口に北仰多目的研修集会所があり、そこから徒歩数分。高島市コミュニティーバスの路線も近くを走っている。集落にある津野神社は、日置神社(同市今津町酒波)と合同で、毎年4月18日に旧川上庄(今津町北部とマキノ町大沼地区)の祭り、川上祭を催している。滋賀県選択無形民俗文化財の一つで、みこしや大のぼりの巡行、走り馬などで五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する。

【2007年10月25日掲載】

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