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(178)薩摩義士 平田靱負の墓(京都市伏見区)

治水指揮、堤で切腹
「薩摩義士」として古里では道徳の教科書にも登場する平田靱負の墓。焼酎を墓にかけて帰る人もいるという(京都市伏見区)
 江戸時代、薩摩藩の祈祷所(きとうしょ)だった大黒寺。寺田屋事件で襲われ、落命した有馬新七ら薩摩九烈士の墓の前に、古里・鹿児島の人たちから今も「薩摩義士」と慕われる家老平田靱負(ゆきえ)の墓がある。
 宝暦二(一七五二)年、薩摩藩は九代将軍徳川家重から濃尾平野の木曽・長良・揖斐川の治水工事を命じられた。背後には、強大な薩摩藩の力をそぐ幕府の狙いがあった。刀ではなく、鍬(くわ)を持って使役することに反対の声もあったが、平田は上意討ちよりも藩の安泰を考えつつ、濃尾地方の民衆を救う決心をした。
 工事には薩摩藩から千人近くが出向いた。予想以上に難航したが、石や砂利を積んだ船を目的地で沈める工法などを駆使して土手を築き、三年半後に見事、完成させた。
 しかし、その代償は大きかった。諸説あるが、総費用は四十万両(約三百億円)、病死者や自害者は八十人以上にのぼった。平田は幕府の検分が終わると、堤の上で切腹して果てたという。
 遺骨は、当時「薩摩寺」と呼ばれていた大黒寺に運ばれた。「幕府のある江戸の方を向き、切腹したと聞いています。無念を晴らしたかったのでしょう」と、黒坂堯栄住職(60)は語る。
 墓は本堂裏に造られ、手厚く供養された。それから約二百三十年後の一九八七年、本堂の改修工事に伴って墓を移設するため、墓の真下を掘った。何も出ない。石棺にたどり着いたのは地下数メートルで、しかも墓の位置から横にずれていた。黒坂住職は「工事の総奉行が腹を切ったとなると大変ですので幕府に見つからないように隠したんでしょう」と真意を推察する。
 高さ二メートルの立派な墓の隣に、石棺のかけらを立てて並べている。鹿児島県人はもちろん「薩摩さま」と呼ぶ濃尾地方の人たちが多く訪れ、悲話の主人公に花をたむける。
 雨のそぼ降る朝。墓前には、空になった薩摩の芋焼酎のびんが置かれていた。
【メモ】京阪、近鉄丹波橋駅から徒歩約5分。もとは円通山長福寺というが、江戸時代初め、薩摩藩・島津家の守り本尊である大黒天が同寺にあったことを縁に薩摩寺と呼ばれた。西郷隆盛が住んでいた部屋が残り、明治維新の舞台にもなった。

【2007年11月1日掲載】

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