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(182)大門通(舞鶴市浜、溝尻、市場)

僧に由来の伝承も
鎮守府の東門は、交差点付近にあった。奥の山が伝承の舞台となった夕潮台公園(舞鶴市北吸・国道27号)
 日本海に面した舞鶴市に、旧海軍が対ロシアをにらんで拠点となる鎮守府を設けたのは一九〇一(明治三十四)年。漁村だった東舞鶴地区は碁盤の目状に区画整理され、東西の通り名は「八島」「敷島」「三笠」といった連合艦隊の軍艦名が海岸から建造順に並んだ。
 通り名は今も残り、艦のイラストをあしらった標識が、港町のムードを醸し出す。だが「大門(おおもん)」は軍艦名ではない。大門通は福井県敦賀市−京丹波町を結ぶ国道27号のうち、市役所前の北吸交差点から同市市場の高架下までの約一・五キロだ。
 東舞鶴にある東西の通りではもっとも広く、幅約十八メートル。名前の由来について、地元の観光ガイドボランティア伊庭節子さん(58)は「鎮守府の東門につながる重要な道にちなむと聞いた」と話す。鎮守府の東口は市役所前付近でれんが造りの門柱があった、という。
 「通説以上に、もっと大きなロマンが隠されている」と舞鶴市郷土資料館アドバイザー、高橋卓郎さん(80)。一説によると、鎮守府の設置で移転を余儀なくされた当時の有力者西村氏が、子どもの病を治療した「大門坊」という僧を代々慕っており、海軍は同氏からの反発を和らげるため軍港構内への主幹道路に僧の名を付けた、という。
 大門坊説に関連する逸話が、江戸期の民話を集めた「丹後旧語集」に収録されている。大門坊という修験僧が、古城で遊んでいる最中に突然何かに取りつかれた西村氏の男児を祈とうで助けた。取りついたのは「杉山の神」で、男児の口を借りて大門坊に自分を祭るよう求めた、と言う。
 高橋さんは「この古城は浜村城跡地を整備した現在の夕潮台公園ではないか」と指摘する。
 西村氏の子孫にあたるという西村繁三郎さん(77)にたずねた。残念ながら、「大門坊説について、両親らから言い伝えや由来を聞かされたことはない」と話す。
 舞鶴市社会教育課主幹の吉岡博之さん(50)は「鎮守府の西口に通じる道路を『西大門通』と記した明治期の地図が残っている。東門説が有力だろう」と説明する。
 舞鶴の近代化から百年余り。一つの通りの由来で諸説伝えられるのは、大門通が地域に愛されている証拠ではないだろうか。
【メモ】通り名が決まったのは鎮守府開庁の1901年。南北の通りは鎮守府側から一条から九条まである。東西は戦艦や巡洋艦名にちなむ。碁盤の目は、当時の最新の都市計画に基づき設計された北海道旭川市をモデルとしたため、と言う。

【2007年11月8日掲載】

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