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(183)多賀花と善兵衛(大津市)

悲恋に崇敬集める
西蓮寺の墓地にたたずむ多賀花と善兵衛の墓(大津市石山寺2丁目)
 大津市石山寺二丁目の西蓮寺墓地の入り口。無縁仏が並ぶ区画の隣に、小さなほこらが建つ。中の墓石(高さ約六十センチ)には「文化三丙寅(ひのえとら)(一八〇六)年三月」の文字と共に、一組の男女の名が並んで刻まれている。遊女「多賀花」と、呉服屋の手代「善兵衛」。二人は墓地からほど近い瀬田川に身を投げたのだ。
 この世で添い遂げられない事情を抱えた男女が、来世で結ばれることを願って死を選ぶ−人形浄瑠璃や歌舞伎の題材として、数多く取り上げられる「心中」。近松門左衛門の「曽根崎心中」などに代表されるように、色と金が交錯する花街が舞台となることが多い。二人の悲恋も、東海道最後の宿場、大津宿の花街・柴屋町(現在の同市長等二、三丁目)でのエピソードだ。
 恋に落ちた二人だが、遊女を自由の身にする「身請け」には、大金を支払わなければならない。善兵衛に到底出せる金額ではなかった。二人は現世での成就をあきらめ、死出の旅路へと向かう。石山寺近くで亡きがらが見つかると、地元の村人たちによって、同墓地に葬られた。
 悲劇は、やがて民間信仰のように人々の崇敬を集めるようになる。願いかなわず死んでいく二人は「この世に残る人たちの願いはかなえてあげたい」と遺言を残していた。そのためか墓前で願掛けすると、よくかなうと評判になったという。吉水邦應住職(64)は「特に結核に悩む人たちがよく訪れていたそうで、墓石を削って持って帰る人も多かったと聞いています」と話す。
 ほこらは昭和の終わりごろ、檀家の有志たちによって建て替えられた。結核に有効な治療法が見つかった今では、訪れる人も少なくなったのか、周りには草が茂り、秋風にゆっくりと揺れていた。
 現在の柴屋町かいわいは、小さなスナックなどが集まる飲み屋街だ。しかし、中心市街地の停滞と歩を合わせるように、人通りは決して多くはない。
 宿場町、にぎわう花街、そしてそこに咲いたはかない情の花−いまや全盛期の面影をうかがい知ることは難しい。墓が建てられて二百年。時の流れの無情さを感じた。
【メモ】江戸期の柴屋町は、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年刊)に「客の遊興昼夜のかぎりもなく」と紹介されているほどのにぎわいを見せていたという。また「東海道名所図絵」(1797年刊)にも、町の中を遊女が行列する様子が描かれている。2人の墓のある西蓮寺は、京阪石山寺駅下車徒歩約15分。

【2007年11月9日掲載】

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