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(187)藤戸石(京都市伏見区)

権力象徴から仏に
醍醐寺三宝院庭園に据えられた藤戸石。阿弥陀(あみだ)三尊像になぞらえた三尊石組み
 平安末期、源平の合戦のさなか。備前国藤戸(現・岡山県倉敷市藤戸)、児島(現在の児島半島)に陣を張る平氏の軍勢を、源範頼勢が攻め寄せた。波が高くて渡れず困惑していると、御家人の一人佐々木盛綱が手勢を率い、馬に乗ったまま浅瀬を渡った。それに続いた源氏勢は一気に平氏を追い落とした。
 このとき盛綱は浅瀬の場所を地元の漁夫から聞き出した。しかし情報が漏れるのを恐れた盛綱は、その場で漁夫を切り殺した。平家物語が伝えるこの話を題材にした謡曲「藤戸」は、漁夫の母親に非道を責められた盛綱が漁夫の魂を弔い、漁夫の亡霊が現れ、恨み言を繰り返しつつ成仏する。
 戦乱の時代、武士に蹂躙(じゅうりん)され、涙をのまされた庶民の悲しみを伝える話だが、武家社会ではなぜか、一番乗りを果たした盛綱の栄光を伝える話となる。そして漁夫の殺害現場にあったとされる石が、「天下の名石」として語り継がれる。
 その石は、室町後期に実権を握っていた細川管領邸に現れ、京に上ったばかりの織田信長が奪う。当時の公家、山科言継(ときつぐ)の日記には、三千人の人夫を使い、笛や太鼓ではやし立て、足利義昭のために造営した二条邸に運び込む様子が描かれている。
 次なる天下人、豊臣秀吉は、その石を聚楽第の庭に移した。一五九八(慶長三)年、醍醐の花見を催した秀吉は、造営中だった醍醐寺三宝院庭園の主人石とした。現在、表書院から眺める庭園の正面で、ひときわ存在感をアピールしている石が、その藤戸石だ。天下人の自負を体現したような堂々たる石だ。
 藤戸石の由来に詳しい同寺の清水紀尚出版室長は「寺にとっては、権力の象徴というより、大恩ある太閤さんのモニュメント」と話す。
 応仁の乱で荒廃した醍醐寺下寺は五重塔を残すのみだった。大伽藍(がらん)を再興した秀吉は、藤戸石背後の築山に「豊国稲荷大明神」として祭られ、毎朝三宝院本堂に出入りする僧侶は、大明神ならびに藤戸石への合掌拝礼を欠かさないという。権力者に翻弄(ほんろう)された藤戸石は、安住の地を見いだし、三尊石組みの仏となった。
 「太閤さん、そして戦乱の犠牲になった人々への鎮魂が込められている」(清水室長)という。傲然(ごうぜん)と肩を怒らせた石は、一方で深い悲しみをたたえているようにも見える。
【メモ】醍醐寺は京都市伏見区醍醐東大路町22。TEL075(571)0002。地下鉄東西線醍醐駅から徒歩約10分。国の特別史跡・特別名勝の三宝院庭園は秀吉が1598(慶長3)年の醍醐の花見に際して、自ら設計、庭奉行竹田梅松軒に命じて造園。1626(寛永3)年に完成した。拝観料は大人600円、中学・高校生300円。

【2007年11月20日掲載】

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