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(188)明智川(京都市西京区)

光秀と水路 謎伝え
民家に囲まれ、コンクリート壁に変わった「明智川」。今も周辺農地へ清らかな水を送っている(京都市西京区)
 かつて宿場町として栄えた風情が残る京都市西京区樫原地域。その中心部を通る旧山陰街道の所々に、住民でつくる「樫原町並み整備協議会」が散策者向けに作った駒形の札が立てられている。
 そのうちの一つ、静かに流れる用水路「洛西西幹線」脇の札は、その水路が別名「明智川」と呼ばれる由来を説明する。
 札によると、一五八二年六月二日、本能寺の変で主君の織田信長を討った直後の明智光秀が山陰街道を経て領地に向かう途中、樫原で落馬した。年老いた村人は光秀と気付かないまま、おにぎりを差し出すなど親切な振る舞いを見せた。
 光秀は「東で燃えさかる炎はどこの火か。当てれば望みをかなえよう」と問い、村人は「あれは本能寺です」と答えた。感激する光秀に、村人が「田を潤す水が欲しい」と頼み、光秀は直ちに着工した。こうして渡月橋上流の一ノ井堰(せき)を起点に樫原を通り、長岡京市へ続く洛西西幹線の原形が誕生したという。
 しかし、札の説明書きは後半部分で「これはいささか矛盾する」と伝説を自ら否定する。光秀は数日後に天王山の戦いで豊臣秀吉に敗れており、着工しても完成は難しかったと思われるからだ。
 そして本能寺の変後ではなく、一五七〇年代後半の丹波平定に伴い、光秀が一帯に道路やため池を造った時、一緒に水路を整備したのだろうと、用水路が「明智川」と呼ばれる理由を推測している。
 樫原周辺は五世紀ごろ朝鮮から渡来した秦氏が開墾し、古くから農業が盛んな地域。樫原町並み整備協議会の豊田喜治さん(60)は「地元の言い伝えはさまざま。基礎になる水路は秦氏が造り、明智光秀が再整備したという話もある」と話す。
 戦後まで、樫原は旧山陰街道筋に民家や商店があるほかは田畑ばかりだったが、高度経済成長に伴って一気に住宅開発が進んだ。洛西西幹線も今は両側を民家に囲まれ、底と側壁はコンクリートで固められている。
 豊田さんは「いつ誰が造ったかはっきりしなくても、水路が水不足に悩む一帯の農家を潤してきたのは確か。郷土史の一面を映す話として後世に言い伝えを残したい」。そう語り、今も水路の恩恵を受ける自らの畑に戻って、再び農作業に励んだ。
【メモ】樫原は、丹波、山陰地方と京都を結ぶ旧山陰街道で都を出て最初の宿場町があった地域。国道9号から交差点「千代原口」を南進し、京都市バス停「樫原」すぐ近くの交差点北西角に「明智川」の駒札がある。旧宿場町は東西約1キロ続き、参勤交代の途中に諸大名が休んだ「玉村家住宅」や、年貢米など物資を保管した「郷倉」など歴史遺産が数多く残る。

【2007年11月21日掲載】

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