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(192)細川ガラシャ隠せいの地(京丹後市弥栄町味土野)

本能寺の変で幽閉
細川ガラシャの顕彰碑。冬の訪れとともに、辺りは深い雪に包まれる(京丹後市弥栄町味土野)
 「弁当忘れても傘忘れるな」と言われる、うらにしの雨がそぼ降る晩秋の丹後地方。山深い京丹後市弥栄町野中の集落から、つづら折りの細い山道を五キロほど進むと、味土野地区が広がる。
 標高約四百メートル。戦乱の世を強く生き抜いた細川ガラシャの隠せい地だ。ガラシャが幽閉された「女城」跡地には、地元婦人会が戦前に建立した「細川忠興夫人隠棲(いんせい)地」と刻まれた記念碑が残る。
 時代は、今から四百年以上さかのぼる。ガラシャは明智光秀の娘で名前は玉。細川忠興に嫁ぐも、光秀が本能寺の変で逆臣となり、玉の身に危険を感じた忠興によって味土野に幽閉された。
 なぜ、この地が選ばれたのか。郷土史愛好家の芦田行雄さん(82)=同市弥栄町=は「丹後随一の米どころであるとともに、行者山と呼ばれた近くの金剛童子山には、各地からの修験者が多かった。食料や情報が集まる場所だったのではないか」と推察する。
 幼いわが子たちとも離された心寂しい生活は二年余りに及び、玉は「身を隠す里は吉野の奥ながら花なき峯に呼子鳥鳴く」(『丹哥府志』)と、心境を吐露している。
 一方、村人との交流をうかがわせる伝説もある。伝染病が流行した際、「いかでかは御裳濯(みもすそ)川の流れ汲む人にたゝらむ疫れいの神」(行待迪著『細川忠興夫人』)との句を入り口に張らせたところ、疫病は静まったという。
 その後、玉は豊臣秀吉の計らいで大阪へ移住。二十五歳で洗礼を受けて、ガラシャの名を授かる。関ケ原の戦いで忠興は徳川方に属し、石田三成から人質として大阪城に入るよう強要されたがガラシャは拒否。家老に胸を刀で突かせて、三十八年の波乱の生涯を閉じたという。
 ガラシャの遺徳をしのぼうと、カトリック京都司教区宮津ブロック(六教会)は、毎年、五月の第二日曜日の「母の日」に味土野で「ガラシア祭」を行っている。網野カトリック教会信徒代表の稲岡次雄さん(66)は「戦国時代に信者となり最後まで教えを守った。今でも手本とする特別な存在」と話す。
 晩秋の冷たい雨はやがて雪に変わって辺りを白く厚く覆い、人の往来も困難になる。ガラシャの思いが秘められた味土野の地は長い冬を迎えようとしている。
【メモ】味土野地区は、昭和30年代のピーク時には160人ほどが暮らしていたが、豪雪などの影響で、現在では住民は3戸5人だけとなっている。今年8月に誕生した「丹後天橋立大江山国定公園」に含まれ、清流の宇川や環境省の特定植物群落に指定されているシデ林、落差約20メートルの滝など、手つかずの自然が残されている。

【2007年11月28日掲載】

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