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(193)山城国一揆逆修の碑(京都府精華町)

自治の思い伝える
城山の南側、地元の共同墓地の入口近くに並ぶ五輪塔と地蔵。国一揆の逆修の碑とされ、手向けられる花が絶えない(京都府精華町北稲八間)
 十五世紀末の京都南部。国人(こくじん)(在地領主)や農民が、応仁の乱に伴う混乱や守護の介入を排し、八年間の自治と平和を成し遂げた「山城国一揆(くにいっき)」。木津川左岸、京都府精華町北部の北稲八間(いなやづま)集落にある小高い城山(九五メートル)は、国一揆が終焉(えん)を迎える最後の攻防が一四九三年(明応二)にあった稲屋妻城の跡とされる。
 今では町の配水タンクがある城山に立つと、いかにも戦略上の要地。眼下には木津川の流れ、遠くは奈良盆地や生駒山まで望むことができる。
 南側のふもと、竹林に囲まれた北稲八間の共同墓地に、一メートルほどの五輪塔が十基余り並び、中央には石のお地蔵さんが立つ。手向けられる花が絶えない。地蔵と五輪塔を総称して地元で「逆修(げきしゅう)の碑」と呼ばれている。地蔵には「天文六年(一五三七)逆修人数十四人」と刻まれる。生前に死を覚悟した人や、若くして亡くなった子への弔いを意味する「逆修」の文字から、郷土史家らによって、同時代の国一揆との関連が指摘されてきた。
 同町教委の調査では、城山には曲輪(くるわ)や空堀、土塁の跡がある。終戦後の開墾では、一帯で刀や石仏も出土したと言われる。郷土史家の調査や伝承を基に作家の東義久さん(58)=宇治市=が著した「絵がたり山城国一揆」(文理閣)によると、最期の様子はこうだ。
 「明応二年(一四九三)、あくまでも山城守護の入部に反対する国人は、稲屋妻城にこもり徹底抗戦することになる。国一揆側にとってみれば、最初から負け戦とわかっていたであろう。それでも稲屋妻城にこもらなければならない思いがあったのだろう。それは、自分たちが創造した南山城の自治というものに対する熱い思いだったのだろうか。 (中略) 抗戦むなしく、稲屋妻城は落城。山城国一揆は、ここで終わりを迎える」
 実際は数百人の国人衆が立てこもり、入部した古市澄胤の代官・井上九郎の軍勢との戦いで、二百人が討ち死にしたという。その稲屋妻城が今の城山か、逆修の碑が国人衆のものかは定かでないが、同町文化財愛護会会員で、北稲八間に住む岩里周英さん(73)は「戦乱が続く中で、来世を願って碑が立てられ、地元の人々が世話をしてきたのは間違いない。古くからの地域のまとまりを示す史跡として、大事にされているのです」と話す。
【メモ】城山は、精華町の「北稲配水池」の取り付け道路で山頂近くまで行けるが、配水池の敷地内は立ち入り禁止。逆修の碑は、北稲八間の墓地の入り口左手にある。一揆に関する東さんの著作はほかに、長編「山城国一揆」、最新刊の「山城国一揆 国人列伝」(いずれも文理閣刊)がある。

【2007年11月29日掲載】

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