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(197)合体大師(長岡京市)

頭は菩薩、体は弘法
本尊「合体大師」が納められた厨子。今後、33年に一度開帳する(長岡京市今里3丁目・乙訓寺)
 長岡京市の北西部。小中学校や住宅に囲まれ、ひときわ閑静な雰囲気を醸して建つ、乙訓地域でも有数の古刹(こさつ)の乙訓寺。聖徳太子の建立と伝えられ、弘法大師と最澄が最初に出会った寺で、春には境内に植えられた約二千株のボタンの花が咲き競うことから「ぼたん寺」の愛称でも親しまれる。
 その寺の本尊が、「合体大師」だ。阪神大震災の被害を受けた本堂修復の落慶で一九九七年に開帳されるまで二百三十七年間も秘仏だった。首から上が八幡大菩薩(ぼさつ)、体は弘法大師の木彫で等身大の座像。その秘仏誕生の経緯も謎めいている。
 嵯峨天皇の命を受けて、大師が寺の別当(管長)に任命されたのは八一一(弘仁二)年十一月九日。桓武(かんむ)天皇が七八四(延暦三)年に長岡京に遷都した際に、都の中の七大寺の筆頭として大増築された寺は、塀が倒れて本堂の屋根も破れ雨が漏るなど荒れ果て無残な姿をさらしていた。
 というのも、遷都の翌年に造営責任者の藤原種継暗殺の疑いで、桓武天皇は実弟の早良(さわら)親王を乙訓寺に幽閉。絶食で潔白を主張した親王は淡路島への流刑途中に絶命した。この後、天皇は近親者が次々と死に、天変地異や悪疫が続いたことから、怨霊(おんりょう)と恐れて親王の復権を図ったが、騒ぎは治まらず平安京遷都を決意するに至ったといわれる。
 「寺が怨霊を生み出す発端の場所と受け取られ、人が近寄らなくなって荒廃したとも考えられる」と推察するのは川俣海雲住職。「桓武天皇の時と同様に薬子(くすこ)の変で世が乱れ、親王の怨霊を恐れた嵯峨天皇が大師の力を見込んで任命したとの説もあるほど」と話す。
 怨霊を鎮めるため、大師は八幡大菩薩を彫ろうと試みるが彫れない。疲れてまどろむ中で、境内の八幡社から翁(おきな)が姿を現し大師に「あなたは、わたしの首から上をつくりなさい。わたしは、あなたの体を彫りましょう」と伝えたといい、明け方に彫り終えて体に頭部をのせると寸分の狂いもなく合わさったとされる。
 開帳で合体大師を初めて目の当たりにした川俣住職は「仏より人に近い、耳が大きく僧侶を仏像にしたような雰囲気。威厳があって圧倒された」という。今後、合体大師は一七六〇年まで記録に残る故事に基づき三十三年に一度開帳するが、「開帳を過去のように途絶えさせないため中開帳も検討したい」とも話す。
【メモ】寺内の内紛で、僧徒が追放され禅宗の南禅寺の末寺とされた。その後、織田信長の兵火で衰退したが、将軍徳川綱吉の援助で江戸護持院住職の隆光が乙訓寺の住職となり、真言宗の寺として再建された。1966年に隣の長岡第三小建設に伴う発掘調査で、僧侶が仏法を学ぶ大規模な講堂跡が出土。弘法大師が住んだとみられる僧坊も見つかった。長岡京市今里3丁目14−7。TEL075(951)5759。拝観は午前8時−午後5時。入山料は大人300円、小中学生100円。

【2007年12月6日掲載】

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