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(205)権現寺(下京区)

安寿、厨子王の舞台
安寿と厨子王の悲しい流転の物語を伝える権現寺(京都市下京区)
 幼い娘と息子をさらわれて、安寿、厨子(ずし)王と母が呼び返す。人買いの山椒太夫が強いる陰惨な児童への重労働。幼い姉弟の流転を描いた説経節「さんせう太夫」は、小説では森鴎外、映画では溝口健二監督らが題材としてきた。安寿と厨子王の物語の舞台となった寺が、京都市下京区にひっそりとたたずむ。
 山椒太夫の苦役から弟をうまく逃してやった安寿姫は拷問を受ける。弟の厨子王は姉の守り本尊のお地蔵さまを手に、丹後国分寺へ、さらに追われてこの権現寺へとたどり着く。ここに厨子王の守り本尊だという「身代わり地蔵」が伝わる。
 山椒太夫の追っ手が、厨子王が隠れている皮のつづらを怪しみ、やりで突いた。身に付けていたお地蔵さまが切っ先を受け止め、厨子王は難を逃れた。身代わり地蔵は十センチほどの小さな念持仏で、胴のあたりにやりの傷がある。寺には、厨子王が身を隠したという皮のつづらの一部も残る。
 説経節は中世、節を付けて語られた口承の物語や民衆芸能に起源を持つ。厨子王も、権現寺の額では「津子王丸」と、違う字が当てられている。「説経節は、民衆の間に広く流布していったので、少しずつ違う伝承が各地に残っています」と浜田義信住職はいう。
 説経節では皮のつづらに身を潜めて丹後から権現寺に運ばれた厨子王は足腰が立たず、土車で大阪の天王寺まで運ばれる。霊験で治癒し、山椒太夫に復讐(ふくしゅう)を果たす。
 浜田住職が古地図の写しを広げると、権現寺は山陰街道の起点にあった。江戸期の絵地図では、ちょうど「お土居」のすぐ外に位置し、旅籠(はたご)も並んでいる。交通の要衝だったことが物語の舞台になった一因だろう。
 辺りはかつて朱雀野といった。権現寺は歓喜寺といい、度重なる戦乱などで焼失、権現堂だけが残った。名前も何度か変わった。明治時代の終わりの山陰線敷設に伴い、市中央卸売市場の南、新千本通七条の角から現在地へと強制移転をした。境内には、一部が焼け焦げた鎌倉時代の石仏がたたずむ。安寿と厨子王の流転のように、権現寺も幾多の苦難をたどったが、信仰や伝承は今に息づく。
【メモ】身代わり地蔵がある権現寺へは、JR丹波口駅から高架沿いに市中央卸売市場を抜けて七条通へ。七条通の商店街から西へ折れ、七本松通の交差点手前の路地で南に入る。権現堂ともいう。手前には保元の乱ゆかりの源為義の墓がある。下京区朱雀裏畑町。

【2008年1月18日掲載】

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