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(206)幻の「合村」(滋賀県守山市)

洪水で消滅と伝承
合村跡から見つかった地蔵や墓石を安置する十王堂の境内。今も地域住民が丁重に供養している(守山市川田町)
 野洲川の左岸に位置する守山市川田町。昔ながらの木造民家と新興住宅が混在する閑静な集落には、歴史上からこつぜんと姿を消した「幻の村」の伝説が残っている。優雅な村だったと伝えられる半面、悲劇の村としても語り継がれ、その真相は謎に包まれている。
 村の名は「合村(ごうむら)」。地元の伝承によると、合村は室町時代末期に河田村(現在の川田町)の枝郷となった。村には大屋敷や右京、左京と呼ばれる屋敷があり、人々は畑仕事もせず裕福に暮らしていたという。
 しかし、江戸時代に入り、村のそばを流れていた野洲川の堤防が洪水で決壊。濁流は村をのみ込み、民家は全戸流出、村人全員が行方不明となり、平和な村は廃絶したとされる。
 現存する史料で合村を確認できるのが、延宝五(一六七七)年の村絵図だ。河田村の南隣にはっきりと描かれ、少なくとも江戸初期には村が存在していたことを示している。
 だが、村にどんな人々が住み、大水害がいつ起こったのかは口伝や記録に残っておらず、実態は不明だ。合村はいつしか幻の村となって伝説化するが、昭和初頭になって突如、その存在があらわになる。
 川田町で土地整理が行われた際、合村跡とされる一帯から墓石や井戸跡、約百体に及ぶ石地蔵が次々に出土。伝説は本当だったと人々は驚き、一九二七年に地蔵などを集落南東の「十王堂」に移して供養した。
 三十年前に合村を研究した前守山市教育長の川端弘さん(75)は「徳川幕府の幕藩体制確立後に村が形成されたのではないか。住人の職業は分からないが、墓石に刻まれた戒名などから身分の高い士族階級だったようです」と解説する。
 一方、当時の野洲川は合村付近で右に曲がっていたため増水時は堤防決壊の危険が常にあった。事実、同市川田町では河川改修まで幾度も水害に見舞われており、洪水で村が消滅したという伝承は信ぴょう性が高い。「度重なる水害で村全体が疲弊し、土地を移ったのかもしれない」と、川端さんは話す。
 多くの謎を残す合村だが、地蔵を安置した十王堂には今も地域住民が絶えず花を手向け、天災のない平穏な日々を願っている。
【メモ】合村伝説ゆかりの「十王堂」へは、JR守山駅から近江鉄道バス服部線「川田」下車、東に徒歩約5分。「チッソポリプロ繊維守山工場」正門前の十字路を北東に進み、最初のT字路を北西に折れてすぐ。問い合わせは守山市文化財保護課TEL077(582)1156。

【2008年1月23日掲載】

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