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(216)二月堂竹送り(京田辺市など)

大松明の軸届ける
「二月堂」と刻まれた石灯ろう。山城地域を中心に15基ほど確認されている(京田辺市田辺)
 奈良に春の訪れを告げる行事として大勢の観衆を集める東大寺二月堂修二会(お水取り)。僧が持って走り回る大松明(たいまつ)の軸には、良質の竹の産地として知られる山城地域の竹が使われる。この竹はかつて、奈良へ向かう街道を通る旅人らがリレー式に運ぶ「竹送り」の風習によって、山城地域から二月堂まで届けられていた。
 修二会の歴史は七五二(天平勝宝四)年までさかのぼるが、竹送りがいつごろ始まったのかについては「記録が残っていないので、はっきりしません」(鷲尾隆元・東大寺上院副院主)という。ただ、近年、古い民家から見つかった文書の解読などによって、竹送りの歴史が少しずつ明らかになってきた。
 竹送りの歴史を調べている「山城松明講」(京田辺市)の松村茂・講社長によると、戦国時代の天正年間に書かれた文書から、山城地域では二男、三男を東大寺の僧にする大農家があったことが分かった。大農家側は家の名誉になり、東大寺側は金銭や物資の仕送りを期待できた。
 江戸時代初期には、村の有力農民らが共同で二月堂に物資を送る講が、各地につくられたという。江戸時代後期には、竹送りや参拝の道標などとして、「二月堂」と刻まれた石灯籠(どうろう)が各地に建てられた。これらの石灯籠は自然石を使ったものが多く、お化けのように見えたことから「お化け灯籠」とも呼ばれてきた。
 これらのことから、松村講社長は、街道を行く人がリレー式に運ぶ竹送りが始まったのは、江戸時代中期の元禄年間と推測している。
 竹送りは戦後、いったん途絶えた。この時期に竹がいっせいに枯れたことや、一九五三(昭和二十八)年の山城大水害などの影響と言われている。一九七八年、山城松明講が二十五年ぶりに竹送りを復活させ、往事の光景を再現している。
 松村講社長は「竹に限らず米や炭でも、『二月堂様』と書いて街道に置いておけばきちんと届いた、と聞いています」と話す。石灯籠は、京田辺市や大阪府河内地方などに十五基ほど確認されており、民衆の素朴な信仰心が支えた心温まる風習を現代に伝えている。
【メモ】修二会は3月1日から14日まで。竹以外にもヒノキ材や菜種油などが、京都、大阪、滋賀などの約40講から二月堂に届く。山城地域の「竹送り」は1978年、山城松明講によって復活。毎年2月11日、京田辺市の竹林から切り出した7本の竹を奈良まで運んでいる。

【2008年2月8日掲載】

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