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(222)中原中也の下宿(京都市上京区)

女優と恋 青春の日
詩人中原中也が10代の日々を過ごした民家(京都市上京区)
 十七歳。「在りし日の歌」の早熟の詩人は、詩集を抱え、京都の道をさまよい歩いた。中原中也(一九〇七−一九三七)は大正時代の京都で青春の日々を過ごし、若い女優と恋をした。
 中原中也は一九二三(大正十二)年、立命館中学に編入。三歳年上の女優長谷川泰子と一緒に、二年間を京都で過ごした。丸太町橋のそばの古書店で、詩集「ダダイスト新吉の詩」に出会った。
 少年は京都時代、下宿を転々としている。北区小山、左京区聖護院。北区大将軍の椿寺の裏。二年間で六度も転居を繰り返した。
 〈僕は此(こ)の世の果てにゐた。陽は温暖に降り注ぎ、風は花々揺っていた。(中略)棲(す)む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の上の色、時々見るのが仕事であった。〉(「ゆきてかへらぬ」から)  「風信機は、風見鶏のことでしょう。戦後もこの家から、向かいの虫籠窓の家の向こうに竹ざおの風見鶏が見えました。二階が増築されて隠れてしまいましたが。中也の詩にあるのはあの風見鶏のことだったと思います」  最後の下宿が、上京区河原町通今出川近くに現存している。戦前からこの家で暮らす中川忠幸さんはそう振り返る。
 十七歳の中原中也はここで、女優と同棲(どうせい)生活を送った。中也が友人への転居届で「スペイン風掃き出し窓」と自慢してみせた窓は、二階東側の小窓ではないか、といわれている。中也ファンが時折、写真撮影に訪れる。
 中也はなぜ下宿を転々としたのだろう。
 大正十三年の京都の古地図を中川さんが机に広げた。上京区に河原町通の名はなく、寺町通が電車道で大通りになっている。今出川通も鴨川に橋がなく行き止まり。地図をみると中也の下宿先は電車の沿線だったことが分かる。十代の少年の同棲に対する社会の目の厳しさや、経済的な事情もあったのかもしれないと、中川さんは推測する。
 中也の下宿は友人が引き継いだ。「スペイン風の窓というが、うちの窓は観音開きではない。友達に後を引き継いでもらうために、うまく形容したのでは」と中川さん。
 戦後も下宿が並び、丸太町通や今出川には古書店も多かった。このほど立ち上がったNPO法人(特定非営利活動法人)「京都中也倶楽部(くらぶ)」のメンバーでもある中川さんによると、他の中也の下宿先はガレージになるなど姿を消した。街は大正時代と変わったが、詩人の京での面影を探る人の輪が、静かに広がっている。
【メモ】中原中也が下宿し文学を語った家は、上京区河原町通今出川交差点を西へ、中筋通から南へ向かった1本目の交差点にある。京都での中也の歩みはNPO法人京都中也倶楽部TEL075(801)3025。

【2008年2月21日掲載】

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