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(225)蓮月庵(京都市北区)

”創作“生きる力に
悲痛な運命に負けず、人生を生き抜いた大田垣蓮月が晩年を過ごした蓮月庵(京都市北区西賀茂神光院町・神光院)
 二度の結婚は離縁と死別、授かった五人の子どもはみんな幼くして病気などで亡くした。江戸幕末期から明治にかけて京都で活躍した陶芸歌人の大田垣蓮月(一七九一−一八七五年)は、悲痛な運命を背負いながらも八十五年の人生を生き抜いた。尼僧として晩年を過ごした茶室「蓮月庵」が今も京都市北区西賀茂神光院町の神光院の境内に残る。
 蓮月は京都・三本木(今の河原町通丸太町東入ル)で生まれ、生後すぐに知恩院の寺侍大田垣家へ養女に出された。最初の結婚で生まれた一男二女は生後すぐに死亡し、夫とも離縁した。二度目の結婚も夫を病気で失い、三十三歳で出家。不幸は続き、四十二歳までに一男一女と養父を亡くした。神光院の徳田光圓住職は蓮月の前半生を「不遇の連続で、人の世の悲しみと無情を味わい抜いた」と推し量る。
 それでも蓮月は生きた。四十歳を過ぎてから自作の和歌を彫った陶器「蓮月焼」が大流行した。訪問客が増え、逃れるために引っ越しを繰り返し、多い年は一年で十三回も重ねた。「引っ越しの蓮月」とも呼ばれたゆえんだ。落ち着いた先が蓮月庵で、蓮月が七十五歳のとき。蓮月庵は約四十平方メートルの古めかしい平屋の木造建物で、木々に囲まれ存在を隠すように立つ。
 晩年、その人間像を示すエピソードが伝わる。ある晩、盗賊が茶室に侵入した。蓮月は「高価な物もたいしたお金も持っていない」と答え、腹をすかせている様子の盗賊に、はったい粉を茶で溶いて与えた。さらに「売ればお金になる」と、部屋にあるだけの自作の陶器を持ち帰らせたという。
 翌日、大津方面へ向かう道で行き倒れた盗賊が見つかった。死因は毒死。蓮月が知らずに与えたはったい粉は以前、勤王派ともいわれた蓮月の命を狙う刺客が送ったものだった。蓮月の慈悲深い心が自らの命を救った。
 なぜ蓮月は寂しさを心に封じ込めながらも、苦難の人生を生き抜けたのか。徳田住職は「尊い命を相次いで失った蓮月には、陶器や歌を作り出す創作の『生みの喜び』が生きる力につながったのではないか」と話す。ひっそりと立つ蓮月庵には、生き続けることで苦しみを乗り越えた蓮月をしのび訪れる人が絶えない。
【メモ】神光院TEL075(491)4375は真言宗弘法大師の霊場で、東寺、仁和寺と並ぶ京の三弘法の一つ。毎年7月にはキュウリに病気を封じ込めて健康を祈る「きうり加持」が営まれる。蓮月に茶室を紹介したのは同院の月心和上と親交があり、蓮月がただ一人、心を許した明治、大正に活躍した画家の富岡鉄斎。参拝は無料。

【2008年2月27日掲載】

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