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(226)松本重太郎翁石像(京丹後市)

関西経済界の重鎮
間人小の子どもたちの誇りにもなっている松本重太郎翁の石像(京丹後市丹後町間人)
 日本海の潮騒が眼下に響く京丹後市丹後町間人の間人小。その玄関前に口ひげをたくわえ、凛(りん)とした表情の松本重太郎翁石像が建っている。登下校するふるさとの子どもたちの成長を見守っているかのように。
 明治期に関西経済界の重鎮として活躍し、「東の渋沢栄一、西の松本」と並び称された人物だ。石像は一九五七年、松本翁顕彰会が建立した。間人小の中江香代子校長(60)は「五年生が地元の人物学習で学びます。偉大な先輩の伝記にひきこまれるようです。子ども心に熱い刺激を受けるのではないでしょうか」と話す。
 松本は、江戸時代後期の一八四四(弘化元)年に農家の三男として生まれ、幕末の十歳の時、京都に出て商店で奉公。二十五歳で洋反物と雑貨を扱う会社を大阪で開業した。以来、たぐいまれな商才を発揮し、西南戦争で巨利を得て新事業を展開。「商工業の発展には銀行と鉄道が不可欠」と時代を先見し、七八年に国立百三十銀行を創立、八四年には日本初の私鉄「阪堺鉄道」(現・南海電鉄)を立ち上げた。
 その時、路線調査のため、たもとから取り出した豆粒を数えている松本の着物姿があった。荷車や通行人の数を確かめて採算性をはじき出したという「豆計算」のエピソードとして今に残る。
 このほか、大阪麦酒(現アサヒビール)や大阪紡績(現東洋紡)をはじめ、保険、炭坑、新聞事業など四十社を超える企業を手がけ、関西経済界をけん引した。だが、日露戦争を機に経営が破たん。事業救済の見返りに「悉皆(しっかい)出します」と全私財を差し出し、豪邸暮らしから借家住まいになった潔さも注目を集めた。
 そんな松本を広く全国にPRしようと旧丹後町商工会の青年部などが奔走。二〇〇〇年に作家の故・城山三郎が波乱に富んだ生涯を描いた小説「気張る男」を出版。〇三年には、NHKドラマ「新夫婦善哉『われ、晩節を汚さず』」が放映された。元青年部長の旅館経営福山勝久さん(50)は「間人出身の偉人を多くの人に知ってもらえた意味は大きい。逆境を跳ね返す彼の生きざまは丹後の人々に誇りと勇気を与えてくれる」と話す。
【メモ】松本重太郎は関西随一の財界人の地位に上り詰め、大阪港の築港にも尽力した。また、衆議院議員をはじめ、大阪商工会議所特別会員や日本興業銀行設立委員なども務めた。1913(大正2)年に68歳で他界した。

【2008年2月28日掲載】

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