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先人の土木遺産

治山・治水 湖国ならではの工夫
ノミの跡が残る西野水道の内部(長浜市高月町)

 琵琶湖を囲むように暮らしが営まれてきた滋賀県。治山治水や道路整備も琵琶湖や琵琶湖に注ぐ河川と深くかかわり、独特の土木構造物が数多く造られてきた。目立たないが今も現役で活躍する湖国の土木遺産を訪ねた。

 狭い入り口に足を踏み入れると、黒光りする岩肌にノミの跡が生々しい。前方は真っ暗で、水の流れる音がこだまのように響く。懐中電灯を頼りに奥に進めば進むほど、冷気が迫り、心細さが募る。

 琵琶湖の北部、長浜市高月町西野の水田地帯から湖岸沿いの山をくぐり琵琶湖に抜ける西野水道。1840(天保11)年から5年がかりで、石工の手だけで掘り抜かれた長さ約250メートルのトンネルだ。

 西野地区ではかつて、余呉湖から琵琶湖に注ぐ余呉川が頻繁にあふれた。田は水はけが悪く収量も少ない。人々は飢えに苦しみ、ヘビやヒルに悩まされた。

 地元在住で郷土史を研究している成田迪夫さん(71)によると、地域には最近まで「流れ」「蛇切り谷」といった地名(小字名)が残っていたほど。洪水の年はドングリやクズの根も食べたという江戸時代の記録もあるという。

 こうした状況を改善するため、あふれた水を直接、琵琶湖に流す工事が敢行された。工事を指揮したのは地元の住職、恵荘。領主、彦根藩との調整や手続き、石工や手配、掘削の技術指導も手がけた。地元では今も「恵荘上人」として人々の絶大な尊敬を集める。

 トンネルの掘削は両側から行われた。地元の記録によると、方位は磁石、高低は水を盛った容器を水準器としたとされる。実際に歩いてみると、一部に掘る方向を修正した形跡はあるものの曲がりくねってはいない。両側の出口は東西の直線上に位置しており、測量の正確さを物語る。

 成田さんは「恵荘上人は京都で修行中に万巻の書に触れたといわれる。最新の測量技術にも触れたのではないか」と推測。「西野水道は先人の不屈の精神が作り上げた。豊かな時代になり琵琶湖をめぐる風景は変わったが、当時の人々の思いを伝えていきたい」と話す。

川の下に川、道路 田川カルバート・大沙川隧道

上・川が立体交差する田川カルバート。手前に流れるのが田川。奥の鉄橋は高時川(長浜市)
下・大沙川の下を旧東海道が通る大沙川隧道(湖南市)

 川の下を川が流れる「川の立体交差」が長浜市虎姫町にある。

 田川カルバート。高時川の下を田川が地下水路(カルバート)でくぐり抜け琵琶湖へ注ぐ。

 かつて田川は姉川とその支流の高時川に合流していたが、姉川と高時川は土砂の堆積で川床が高くなり、大雨が降ると田川に逆流。洪水の原因になっていた。

 このため田川を分岐して水を直接琵琶湖に流す試みが江戸時代からなされてきたが、明治時代に県が近代的な土木技術で施工。1885(明治18)年に完成させた。現在のカルバートは1966年に新たに造られたものだ。

 川が比較的緩やかに琵琶湖に注ぐ滋賀の地形は、上流の土砂が堆積して川床が周囲より高くなる「天井川」ができやすい。川の下を道路が通る例も少なくない。

 湖南市の大沙(おおすな)川隧道(ずいどう)は大沙川の下を旧東海道が通る。川べりに立つと、流れの下を車が通過する光景を見ることができる。1884年完成で、建設当時の位置で現存する石造トンネルとしては国内最古級だ。

欧の最新技術で 田上山の石積えん堤

 大津市南部の田上山には数多くの石積えん堤がある。いずれも明治以降、ヨーロッパから当時の最新技術を取り入れて作られたが、今では里山の水辺の風景に溶け込んでいる。

 田上山は近世以後、長い間はげ山だった。京都や大阪など大都市の木材需要に応じて伐採が続いたためで、ふもとは大雨の度に洪水に苦しんできた。えん堤は水害対策の砂防ダムとして建設された。

 中でも草津川の上流、大津市桐生にあるえん堤は1889(明治22)年の完成で「オランダ堰(えん)堤」と呼ばれ親しまれる。高さ7メートル、堤の長さは34メートル。石を階段状に20段積み上げ、中央に水を集めて川の両端が削られにくい設計になっている。

意匠凝り興味深い

滋賀の土木遺産

滋賀県教委文化財保護課の寺西正裕さん

 滋賀には天井川が多く、明治期に造られた天井川のトンネルなどは意匠も凝っていて興味深いものが多い。田川カルバートも天井川ゆえの構造物。川の立体交差は全国的にも珍しいと思う。田上山にはオランダ堰堤だけでなく無数の砂防ダムが残っている。疏水など琵琶湖関係の建造物も大切な土木遺産だろう。

【2011年6月22日掲載】