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江戸時代に整備、車石をたどる

牛車が通りやすく

 江戸時代に京都周辺の街道に整備されていた車石をご存じだろうか。米などを運ぶ牛車が通りやすいように道に敷いた石で、車輪が通る部分にあるすり減ったへこみが特徴だ。東海道や竹田街道、鳥羽街道では今でも名残をみることができる。主に京都の歴史愛好家でつくる「車石・車道研究会」の会員と、多くの史跡が残る大津市と京都市の旧東海道を歩き、車石の面影をたどった。

大津−京都間に5〜6万個

江戸期の資料に基づき、正確に再現された車道。2列に並んだ車石の中央部に砂利を敷き、左側には人や馬が通る道を一段高く配置した(大津市横木・閑栖寺)

 旧東海道を大津の追分から京都の日ノ岡峠に向けて歩く。江戸中期に敷設された車石は現在、街道沿いであちこちに転用され、住民の生活に溶け込んでいる。

 京阪追分駅からすぐ近くの閑栖寺(かんせいじ)(大津市横木)を訪れた。同寺は今年、車石を敷いた車道を研究会の監修で境内に再現した。資料を基に8個の車石を2列に並べ、石と石の間に砂利を敷き詰めた。安全のため、約30センチ高く造られていた人馬道も設けるなど、当時の様子を厳密に現した。佐藤賢昭住職(73)は「京都周辺では当時から牛車と人馬の道を分けていた。歴史ある街道の様子を正確に知ってもらいたい」と話す。

 街道を歩くと、民家の石垣のあちこちに車石が使われている。無造作に玄関前に置いている家もある。大津市横木の民家では、車石を置き、説明板も立てている。あまりに簡単に車石が見つかるので少々拍子抜けする。

 旧東海道の大津−京都間に5〜6万個の車石があったとされ、四ノ宮、横木、追分だけでも今も100個ほどが確認できるという。研究会の会員武内良一さん(71)は「明治期に撤去された車石は、周辺の民家などに散逸している。庭石や石垣、手水(ちょうず)鉢に使っている家も多い」と説明する。

 山科区四ノ宮に入ると、町の地蔵の台座にも車石が使われていた。山科地蔵で知られる徳林庵の境内でも車石を見つけた。「江戸期の山科では地域ごとに車道の管理が任されていた」と武内さん。

 さらに進んだ日ノ岡峠は勾配がきつい。当時は米俵の一部を降ろして人間が運び、牛車は押して上ったそうだ。坂道がぬかるんでいても、車石があれば車輪はめりこまず、牛の負担は軽くなったに違いない。

歴史愛好家「隠れた文化財」

日ノ岡峠の九条山周辺の擁壁には多くの車石が再利用されている(京都市山科区)

 九条山付近には、京都市が2004年に整備した車石広場がある。牛車の実物大の見本や実際の車道を見学できるが、久保孝副会長(63)は「実際の牛車とは形が違い、車輪の幅も狭い。車石の敷き方も資料と違うので間違った情報として認識される可能性がある」と指摘する。

 日ノ岡峠では旧東海道の道路側面に、へこみのある車石がちらほらと見える。約600個あるという。種類も多く、十文字や二筋の轍(わだち)の跡もある。昭和初期の道路改修工事で撤去された車石が擁壁材料として再利用されたという。市営地下鉄・京阪の御陵駅近くにある京津国道改良記念工事碑は、三条通で最も大きい車石モニュメントだ。台座がぐるりと車石で作られている。碑を見ながら、旧東海道にずらりと並んだ車石を想像した。

 車石の史跡は、竹田街道沿いの御香宮神社(伏見区)、旧東海道の逢坂の関記念公園や蝉丸神社境内(以上大津市)などでも再現されている。研究会の山嵜廣会長(66)は「車石によって歩車分離を可能にした江戸期の人の知恵と実行力に魅了された。車石は謎が多いが、隠れた文化財。正しい保存と伝承に努めたい」と話している。

<車石>

 江戸時代に東海道の大津札ノ辻から京都の三条大橋までの約12キロの間、坂道で物資を輸送する牛車が通りやすいように道路に敷いた切石。1805(文化2)年に完成。車道と人道に分かれていて京都に向かって右側に車道があり、左側は人や馬が通ったという。明治時代になって不要になり、撤去された。竹田街道、鳥羽街道にも車石を敷き詰めた車道があった。

【2011年10月26日掲載】