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甲賀忍者の虚実を探る

山中でゲリラ戦など駆使
忍者の修行場だったと伝わる岩尾山頂上付近からの眺め。山々が連なる(甲賀市甲南町杉谷)

 甲賀地方は、お隣の伊賀地方(三重県)と並び称される「忍びの里」。物語などの忍者は神出鬼没で超人的な活躍を見せるが、実際はどうだったのだろうか。その虚と実を探った。

 甲賀忍者が名を上げたのは1487(長享元)年から始まった「鈎(まがり)の陣」だ。当時、南近江一帯で勢力を誇った六角氏を討伐すべく、時の将軍足利義尚は自ら大軍を率いて南近江に攻め入り、鈎(栗東市)に陣を敷いた。

 古くから六角氏と関係が深かった甲賀の土着武士団は六角氏側に立ち、義尚を迎え撃つ。将軍方の陣に煙を流し込み混乱させ、夜襲を繰り返すという戦い方や、山中でのゲリラ戦など独特の戦法を駆使し、義尚が陣中で亡くなるまで約3年間、戦い抜いた。

 こうした戦法を編みだし、功労者となった甲賀武士たちが「甲賀忍者」のルーツとされる。突出した領主がいなかった甲賀では、土着武士たちが中世以降、密接な関係を結び、血縁連合的な自治組織「同名中惣(どうみょうちゅうそう)」を組織。さらに連合を重ね、より大規模な「甲賀郡中惣」となり、共和国のような地域に発展した。

どんでん返し、隠しはしご…

望月氏の旧宅「甲賀流忍術屋敷」。多くの観光客たちが訪れる

 「甲賀武士の中にゲリラ戦などの知識がある人がおり、中惣という密接な人間関係の中で、一体となって戦った。将軍側から見れば不思議な技を使う忍ぶ者、『忍者』と言われる元になったのでしょう」と、郷土史研究やまちおこしに取り組む甲賀忍術研究会の渡辺俊経会長(73)は指摘する。山がちな地形や中惣といった共同体のありようなど、この土地ならではの特殊性が、後に忍者や忍術を育んだ。

 鈎の陣で活躍した甲賀武士、望月氏の旧宅「甲賀流忍術屋敷」(甲賀市甲南町竜法師)は、忍者の生活ぶりをしのばせる。元禄年間(1688〜1703年)に建てられたと伝わり、当時の一般的な日本家屋に見えるものの、内部にはどんでん返し(回転戸)や隠しはしご、地下通路などの仕掛けがある。手裏剣やまきびしなど数百点が展示されており、年間約5万人の観光客が訪れるという。

50キロの引き戸、家族を守る仕掛け

甲賀流忍術屋敷の寝室に通じる引き戸。重くて力を込めないと開け閉めができない(甲賀市甲南町竜法師)

 「とても忍者らしい仕掛けがあります」と、福井實館長(81)が教えてくれたのが、寝室に通じる引き戸。一見、普通の木製の引き戸だが、開けようと手を掛けると全く動かない。立て付けが悪いというわけではなく、全ての戸ががっしりとしている。一枚約50キロもあるといい、両手で持ち力を込めると、ようやく開け閉めできた。

 「引き戸は片手で開けられるものという発想を逆手にとっています」と福井館長。寝室に入ろうとした盗賊らに、簡単に開かないことで鍵が掛かっていると勘違いさせる仕組みで「たたき破るにしろ、力を込めて引き開けるにしろ、中の人間が逃げる時間を稼げます。相手を倒すための仕掛けではなく、家族を守るための知恵、いわば忍術です」と説明する。

 江戸時代、製薬業を営んでいた望月家。忍者の知識から甲賀で発展したという薬の秘伝を守るため、忍術も使った。ちなみに甲賀の製薬業のルーツとされるのが山伏だ。地元には近江屈指の修験霊場、飯道(はんどう)山(同市水口町・信楽町)があり、山伏は豊富な薬草を使った薬や社寺のお札を持って日本各地を巡り、後に薬の製造販売に従事したという。

 岩尾山(同市甲南町杉谷)は、忍者が修行で足腰を鍛えた山岳霊場の一つ。巨岩や奇岩が点在し、標高500メートル近い頂上付近から見下ろすと、周囲の山々が一望できた。

<メモ>

 甲賀流忍術屋敷TEL0748(86)2179は有料。甲賀市観光協会TEL0748(60)2690。

【2011年11月2日掲載】