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石田三成 数多い伝承、逸話

佐和山城の遺構は少なく

 近江出身の戦国武将、石田三成が脚光を浴びている。忠義と智の士として再評価する歴史本やドラマも増え、ゆかりの深い湖東・湖北の地を歴史ファンが巡礼している。地域の七つの戒め、寺院の七不思議の伝承、武断派の七武将との対立など、なぜか縁のある「七」を切り口に、三成の虚実に迫った。

 「三成に過ぎたるもの」と称された佐和山城(彦根市)。佐和山城研究会の田附清子代表(50)=彦根市=は「歴史のロマンと無常を感じつつ、三成さんを思慕できる聖地」とする。

 龍潭(りょうたん)寺側から坂道を登ると本丸跡のある山頂(233メートル)まで徒歩約30分。琵琶湖、伊吹山、中山道(東山道)を一望できる。近江を南北に分ける境目で、東海、北陸、近畿の分岐点。三成は天下の要衝にある城で、主君・豊臣秀吉の没後、徳川家康との天下分け目の合戦の構想を練ったという。

 ただ、城跡を示す遺構は少ない。関ケ原の戦いで三成ら西軍を破った東軍の井伊直政が入ると、石垣などを持ち去って彦根城を築き、佐和山城は徹底的に壊された。彦根城を見下ろす山頂部には「武士(つわもの)の夢 佐和山」と記した看板がたたずむ。

湖北に人生転機の地、点在

七不思議が伝わる清凉寺。中央の木が「娘に化けるタブの大木」

 一方、彦根市内の寺院には、佐和山城の遺構や三成ゆかりの品がいくつも伝わる。宗安寺の「赤門」は城の大手門、「千体仏」は三成の念持仏という。井伊家菩提(ぼだい)寺の清凉寺は、三成重臣・島左近の屋敷跡とされ、佐和山城落城にまつわる「娘に化けるタブの大木」「ひとり鳴る太鼓」などの七不思議を語り継ぐ。仙琳(せんりん)寺の「石田地蔵」は、石田家を慕う領民が隠し持った石像という。

 ふるさとの湖北には、人生の転機の地が点在する。石田一族屋敷跡の石田会館がある長浜市石田町では、石田神社に辞世の句「筑摩江や 芦間に灯(とも)す かがり火と ともに消えゆく 我(わ)が身なりけり」を刻む碑と供養塔が立ち並ぶ。秀吉に仕える逸話「三献の茶」は、東へ車で約5分の観音寺(米原市)が舞台とされ、三成茶汲みの井戸がある。

 秀吉と柴田勝家が覇権を争った賤ケ岳の古戦場(長浜市)では、諜報(ちょうほう)に携わり、一番槍(やり)を挙げたという逸話も。関ケ原の合戦後に三成が捕縛された長浜市木之本町古橋には、七つの戒めが終戦直後まであった。「養子を他村から入れない」は、三成をかくまったことを密告したのが他村の養子だったためといわれる。

中央集権目指した改革派官僚

 歴史研究で、三成の実像はどこまで分かっているのか。文献学や考古学に基づく知見を長浜城歴史博物館の太田浩司学芸員(50)に聞いた。

 三成は、豊臣家を中心にした専制的な中央集権体制を目指し、「構造改革」にまい進した改革派官僚だったといえる。行政官僚トップ「奉行」の筆頭格で、兵農分離を徹底する「刀狩り」、生産高を明らかにする「検地」、戸口調査に当たる「人掃令」にかかわり、鎌倉〜戦国時代にかけての地方分権的な社会を変えようとした。

 後に徳川家康が開く江戸幕府は、各大名が地域を統治する地方分権的な「幕藩体制」をとるが、政治・社会制度の方向性の違いからも、両者の対立は必然だったと考える。

 人物像は、史料的価値の低い逸話集などによるため、よく分からない。ただ、勝者側の徳川光圀が評価するなど、儒教的な忠義の士として認める向きは江戸時代からある。近年、歴史好きな女性「歴女」らによる三成人気が高まっているが、「嫌われようが信念を貫く」「智をもって実行に移す」という姿勢にひかれていると聞く。草食系男子の増加や政治不信の高まりの中、現代にはいない理想の男性像を見いだしているのかもしれない。(談)

【2012年1月25日掲載】