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神門善久氏 日本人の自然観を問い直す

神門善久氏 ごうど・よしひさ 1962年生まれ。京都大では亀谷昰氏に師事。偽装農家や土地持ち非農家など、農業の実地研究を続ける。著書に「日本の食と農」(サントリー学芸賞)など多数。


 近年、日本文化が外国人観光客に大人気なことを誇らしく思う日本人は少なくない。日本文化は、伝統的な日本人の自然観を色濃く反映し、長い年月を経て形成されており、一朝一夕では変化しない。
 だが、もし日本人が自然に対する感性を失えば、日本文化は次第に足元から崩壊していくかもしれない。
 日本の自然は、入念な人為と一体になることで守られてきた。たとえば森林の場合、腐葉土採取や間伐などで人手がほどよい程度に入ることで木が茂りすぎず、健全な状態が保たれてきた。
 あるいは水田やため池を作って湛水(たんすい)し、堆肥を使って農地にすき込んだりして、国土の保水力と地力を維持してきた。築堤や浚渫(しゅんせつ)で洪水を防いできた歴史がある。
 人為が自然破壊を起こす場合ももちろんあるが、一概に人為を否定的にとらえてはならない。「手入れ」によって、自然と調和するというのが本来の日本人の営みである。
 ところが、いまや、「人為=自然破壊」という適切ではない考え方が浸透してきているのではないか。
 たとえば、肥料や農薬が十把一絡(じっぱひとからげ)に悪者扱いされる傾向がある。この結果、地力が失われて逆に環境破壊をもたらし、実際は生育不良で栄養価の低い野菜が「有機農法」の表示で付加価値を付けて売られている場合も見かける。
 乳牛の放し飼いが礼賛される傾向もあるが、事実は異なる。外来種である乳牛にとっては、相当に管理が行き届いた放牧場でなければ、放し飼いはかえってストレスになる。
 もちろん、肥料・農薬への安易な依存や家畜の過度の拘束はよくないが、自然礼賛に基づく放置だけでは作物も家畜も健全には育たない。
 京都造形芸術短期大学ランドスケープデザイン学科OBで造園業を営む杉田悦朗さんは、仕事を通じて、消費者が草木の色彩を見分ける能力が鈍っている可能性を指摘する。庭園では自然にこだわるあまり、灯籠があまり使われなくなっている傾向もあるという。
 草木という自然物と、灯籠という人工物を上手に組み合わせれば、力強い全体像を生む。灯籠が減っていくのは、自然とのかかわり方がわからなくなった日本人の混乱ぶりを反映しているのかもしれない。
 公園の剪定(せんてい)作業が、自然破壊だとして、役場に通報される場合さえあると聞く。いまの日本人の多くは、感受性を培うべき幼少期を野や海であまりすごしていない。その結果、動植物とのコミュニケーションができなくなり、あたまでっかちな自然観の位置付けが大きくなっているのではないか。

(明治学院大教授)

[京都新聞 2018年05月18日掲載]