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高橋隆博氏 大坂城から竹生島、数奇な橋

高橋隆博氏 たかはし・たかひろ 1945年生まれ。奈良県立美術館、関西大教授などを経て現職。専門は美術工芸史。監修書に「新発見 豊臣期大坂図屏風」(清文堂出版)。京都国立博物館評議員。


 豊臣期の大坂城と城下の景観を描いた「大坂図屏風(びょうぶ)」の情報は、ケルン大学エームケ教授がもたらしてくれた。2006年9月のことであった。しかし、にわかには信じられなかった。というのも、織田信長が狩野永徳に描かせた「安土城図屏風」は、イエズス会巡察使ヴァリニャーノによってローマ教皇に贈呈されたのだが、バチカンからはいまだに発見されていないからでもあった。
 期待と不安を胸に、屏風を所蔵するオーストリアのグラーツ市にある古城エッゲンベルク城を訪れた。はたして、鮮やかな彩色と金雲が輝く屏風が眼前にあらわれ、震えるほどの感動におそわれた。
 豊臣政権下の大坂を描いた絵画はきわめて少ない。しかも平和な時代の大坂を描いた作品は3例にすぎない。4例目となるこの屏風には、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが「安土城より2、3倍広壮華麗」と驚嘆した大坂城はもとより、淀川や寺社、町家の景観が、そして人びとの姿が活写されている。とりわけ1596年に秀吉が善美を尽くして建造した極楽橋の実相を伝える唯一のものとして、すこぶる貴重である。
 なぜに秀吉は本丸の北側に豪華絢爛(けんらん)な極楽橋を建造したのか、きっと思惑があったにちがいない。関白となった秀吉は、天皇「御傍(おそば)」で政務を執るため1586年、聚楽第を築城し、その翌々年には、秀吉自らが後陽成天皇の「御迎」のため参内し、ついに天皇の聚楽第行幸を実現する。極楽橋の建造と京街道の整備(文禄堤、枚方から長柄までの27キロ)は同じ年のことで、とても偶然とは思えない。後陽成天皇の大坂城行幸を構想したものであったにちがいない。
 新たに発見された「御所参内・聚楽第行幸図屏風」(上越市・個人蔵)の聚楽第最上層の外部壁面には、葦(あし)の上を飛翔する白鷺(しらさぎ)が描かれるのだが、「大坂図屏風」の秀吉の御座船にも同じく葦と白鷺の組み合わせの図様が描かれており、興味ぶかい。
 極楽橋は、秀吉が亡くなると、その2年後の1600年に京都の豊国社「二階門」(極楽門)建立のために移築される。さらにその2年後、徳川家康の命令により琵琶湖の竹生島に移される。竹生島の宝厳寺唐門こそがその遺構と伝える。4年前、宝厳寺唐門に足場を組みあげ、調査したところ、現状(約9メートル)の約1・5倍の高さであることを推定できた。大坂城の極楽橋がいかに巨大な威容を誇っていたかを思い知らされた。

(関西大学なにわ大阪研究センター特別顧問)

[京都新聞 2016年07月22日掲載]