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川添信介氏 姑息容認する社会の危うさ
かわぞえ・しんすけ 1955年、佐賀県生まれ。京都大大学院文学研究科博士課程修了。専門は西洋中世哲学史。著書に『水とワイン 西欧13世紀における哲学の諸概念』など。

 全国の「進学校」と呼ばれる高校の多くで、必須科目の未履修が問題にされている。最初はびっくりしたのだが、その後の政府の対応を含めて少し詳しく報道されるのを見ているうちに、私はとても「イヤーな気分」になった。
 いわゆる「有名大学」への進学率の高さを、親からも世間からも期待されている高校側がその圧力に屈したものだというのが一般的な見方であり、その通りなのだろう。しかし、私の「イヤーな気分」はこの不正そのものに対してというよりも、このような不正を世の中全体がどこかで諦(あきら)め、さらには「仕方ないじゃない」と容認さえしているように思われるからである。ここには、姑息(こそく)を姑息で恥ずかしいことだと感じられなくなっている社会がほの見えてくる。
 姑息とは「しばらくの間息をつく」、「その場しのぎ」といった意味であるが、「問題に正面から向かい合わずに、とりあえずすり抜けようとする精神」とでも言ったらよいであろうか。高校にこのような精神があったことは否めないし、一部の保護者にもあったのかもしれない。しかし、高校生にも同じ精神はなかったであろうか。「教科書は配られたのに変だなと思った」といった感想をみると、必須科目について高校生がまったく無知だったはずはない。彼らも大学受験という「眼前の」必要のために、必須科目を自分がすり抜けていることから目をそむけるという「その場しのぎ」をしていたのではないのか。高校・教師の姑息さに応じたに過ぎないとしても、高校生も単なる「被害者」ではなかろう。
 学校を意味する英語のスクールという言葉は、直接にはラテン語の「スコラ」に由来し、さらにギリシャ語の「スコレー」にさかのぼり、それは「閑暇」を意味する。勉強や学問にはたしかに時間の余裕がなくてはならないが、ただの暇つぶしなのではない。むしろ、生きていくための多忙な日常の仕事から切り離された状況において、その「生きていく」ことをじっくり振り返るためにこそ勉強や学問は存在しているのであり、そのための「スコレー」なのである。
 反時代的だと承知の上であえて言うなら、勉強・学問と現実の生活とを「さしあたり」は切り離すべきなのである。勉強や学問が人々の現実生活の幸福を最終的な目的としていることは言うまでもないから、「さしあたり」の分離である。現実の生活では姑息な生き方を甘受しなければならないことの多いことは認めよう。しかし、そうだからこそ、そのような多忙な現実から一歩しりぞいた学校という場所ではその場しのぎの姑息なやり方を認めないことが、そして現実を徹底して見つめ直すための勉強や学問が重要なのである。
 眼前の現実的目標のための、その場しのぎの姑息な行為だけからなる社会というのは、気持ちが悪いし、危うさを秘めている。「未履修問題」は高校にだけあるのではなく、社会全体に、そして産学官連携を推し進める大学にもあることは言うまでもないのである。
(京都大大学院文学研究科教授)

[京都新聞 2006年11月19日掲載]