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川添信介氏 プロの倫理と健全な常識
かわぞえ・しんすけ 1955年、佐賀県生まれ。京都大大学院文学研究科博士課程修了。専門は西洋中世哲学史。著書に「水とワイン 西欧13世紀における哲学の諸概念」など。

 私の肩書は大学の「プロフェッサー」ということになっている。この言葉の本来の意味は西洋中世の大学において、高度の専門知識を身につけたうえで、神と同業者の前で職務への責任を負うという「誓いをなした者」を意味する。最初にそうであったのは医者、法律家、聖職者であった。そこから「プロフェッション(専門職)」「プロフェッショナル」が派生し、現代では「プロ野球選手」というように、単なる「職業人」に近い意味で使われるようになっている。
 だが今でも「プロ」は、単にその仕事を生業としているというだけではなく、普通の人間が備えていない知識や技能を持っているがゆえの厳しい倫理性が課されるという考えは残っているであろう。というより、現代の高度な科学技術は普通のわれわれにとってはブラックボックスであって近づきがたく、その道の専門家の言うことを信じるしかなくなっている。現在「工学倫理教育」が問題とされている理由はここにある。
 しかしそれでは、専門職・プロでない一般の人々はただ受動的にプロの言うことを信じて生きるしかないのだろうか。そうではない。専門的な知識や技能を持っていないとしても、その知識や技能が自分の人生と社会にとってどのような意味を持つのかを判断することはできる。そのときにはたらくのは「健全な常識」と言うべきものだろう。
 専門家が「このパソコンは絶対壊れません」と言ったとしたら、誰であっても眉(まゆ)に唾(つば)するはずである。「この株を買えば、決して損をしません」と言ってしまう人を、私たちは専門家とは見なさない。そして、専門家の言うことを聞きながらも、今パソコンを買うのが良いのか株を買うのが良いのかを、自分の生活全体を見渡して判断するのは、専門家ではない私たち一人ひとりでしかないのである。
 そう、念頭にあるのは原子力発電のことである。原子力のプロたちは、自分が特権的に持ちえた専門的知識と技術に対して誠実に向き合う倫理性を持っていたのだろうか。多くのプロは十分にプロではなかったように見える。
 また逆に、専門家でないわれわれの方は、「プロもどき」の言うことに健全な疑いを向ける常識をはたらかせながら自分で判断することを怠ってきたのではないだろうか。社会を作っているのはプロだけではないのである。
(京都大大学院文学研究科教授)

[京都新聞 2011年07月10日掲載]