ソフィア 京都新聞文化会議 京都新聞電子版へ

川添信介氏 喫茶店の衰退と大学生の読書
川添信介氏 かわぞえ・しんすけ 1955年佐賀県生まれ。京都大大学院文学研究科博士課程修了。専門は西洋中世哲学史。著書に「水とワイン 西欧13世紀における哲学の諸概念」など。

 私の大学の周辺でもそうだが、京都の「喫茶店」が衰退しているように思える。いわゆるシアトル系の「カフェ」は盛況なのだが、私にとって喫茶店とカフェは別物なのである。
 大学生だった頃の私にとって、喫茶店は一人で読書する場であるとともに、教師という権威から離れて、友人たちと議論する場だった。たしかにカフェで本を読んでいる人は少なくない。しかし、カフェでは軽いおしゃべりは存在しても、議論を戦わせる姿はついぞ見ないのである。議論する大学生はいったいどこに行ったのだろうか。
 二人以上の人間の間に何らかのまともな議論が成り立つためには、お互いの間の考えの相違が必要であると同時に、何らか同じものが共有されていなくてはならない。
 そう考えてみると、議論の場としての喫茶店の衰退の裏側には、大学生の読書の内実の方も変化しているのではないかと思えるのである。実際、大学生協が行っている大学生の読書に関する調査を見てみると、「誰もが読んでいて当然の本」が昔はあったのだが、現在そのような状況にはないことが分かる。漱石の『こころ』やマルクスの『資本論』がそうだった時代があるのだが、現在それに当たるような本はなさそうである。いまの大学生の間には、議論しようにも共有された基盤がないように思われる。
 このような変化は、価値の多元化として好ましいとみることもできよう。この点を今はおくとして、私が残念に思うのは「知的な背伸び」が今の大学生には欠けているように見えることである。大学生だった私が『こころ』を十分に味読できたはずはないし、大学生の誰もが『資本論』を理解できたはずもないであろう。それでも、ある種の強迫観念に動かされて「読んでおかねば恥ずかしいし、読むべきものだ」と感じて、実際に書を手に取ったのである。
 こんな背伸びを子供っぽいこととして笑うこともできよう。しかし、自分に自然にフィットし受け入れられる書物だけを手にするのではなく、しっくりこなくても、時には嫌悪感を抱きながらも読んだ書物は、私の考えを広げ強くしたという実感は確かにある。
 京都は大学生の街と言われ、若者の「サテン文化」があった。大学生が本を読まなくなったと言われて久しいが、量の問題だけでなく、大学生にとって読書が持つ意味が変化したことを喫茶店の衰退は示していると思われる。
(京都大大学院文学研究科教授)

[京都新聞 2012年05月06日掲載]