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渡辺信三氏 世界で評価された伊藤解析
渡辺信三氏 わたなべ・しんぞう 1935年生まれ。専門は確率論。京都大名誉教授。89年に「確率解析とその応用」で日本数学会秋季賞、96年に「確率解析の研究」で日本学士院賞。

 京都産業大学で開かれた日本数学会の秋の学会で、日本が誇る世界的数学者、伊藤清(1915~2008年)の生誕百年記念・市民講演会が行われ、恩師である伊藤先生の数学について語る機会に恵まれた。
 私は京都大学で確率論を学び、確率解析という分野の研究を続けてきた。先生に初めてお会いしたのは理学部3年生だった1956年9月、先生が米国での研究を終えて京大に戻られ、すぐに担当された数学解析の最初の授業であった。
 私はお会いする前から大きな期待を抱いていた。それは数学科に分属する前の1、2年生の時、ガイダンスで世界が注目する優秀な数学者と聞き、数理統計学の講義でロシアの大数学者コルモゴロフとともに「伊藤清」の名が出てきたこと、百万遍の古本屋で著書「確率論の基礎」(岩波書店、1947年版)を手に入れたこと、等による。すぐ理解するのは難しかったが、序文に強い刺激を受けた。その一部を引用する。
 数学の多分野に比して確率論の発展は極めて緩慢であった。それは確率を数学的に明快に表現する方法が掴(つかま)えられなかったからである。然(しか)るに集合論・抽象空間論等の発展の結果、極めて鮮やかな表現方法が得られた。それによれば「確率とはルベーグ測度である」。この言葉ほど確率の数学的本質を衝(つ)いたものはない。
 これを見て、3年になって先生から学ぶ数学解析、特にフランス人数学者にちなむルベーグ積分論への関心が高まったのだった。
 抽象ルベーグ積分論を基礎に近代確率論の土台を築いたのがロシアのコルモゴロフで、先生の理論はその土台の上に展開され、それは確率過程の見本関数に関する微積分学といえる。ここで時間とともに変化する偶然現象(例えば株価の変動とか、ブラウン運動)の数学モデルを確率過程、その個々のサンプルを(時間を変数と見て)見本関数という。
 ブラウン運動は顕微鏡下で観測される花粉が破裂して飛び出した微粒子が水の分子運動の衝撃を受けて行う極めてジグザグした運動で、その見本関数はあらゆる時点で方向の定まらない微分不可能なものである。
 このように不規則な見本関数をもつ確率過程の微積分学を確立したのが伊藤先生である。それは世界的に伊藤解析と呼ばれ、高い評価を受け、伊藤先生は確率論の分野におけるニュートンに比せられている。伊藤解析は今日、数学はもちろん、金融工学など経済学を含む諸科学で広く応用されている。
(数学者)

[京都新聞 2015年09月25日掲載]