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第1部「在宅と自立の挑戦」

(4)後遺症で疎外感、退職 〜見えない障害に悩む
記憶障害を持つ遠藤さん(中央)はやっと仕事を見つけた。ミスのないことを意識しながら働く(近江八幡市)
 「今度会っても覚えてないかもしれませんよ」。そう言われたのが三週間前。覚えてます? 「…それがね、初対面のような感じで…」
 近江八幡市の遠藤眞一さん(五六)はかれこれ十年、脳の障害と付き合っている。記憶力が落ち、新しい出来事が覚えられない。感情が抑えられにくく、対人関係に悩む。
 水道管を製造する大手メーカーの工場に勤めていた。帰り道。自転車同士で出合い頭に衝突し、地面に頭を打ち付けた。「しっかりしてっ」。家族の呼び掛けにも答えられず、脳挫傷で二週間、昏睡(こんすい)状態が続いた。意識が戻ると、回復は早かった。右半分が折れた頭がい骨も整形手術で完治し、手足にまひも残っていない。退院。「元の生活に戻れる」。本人も家族もそう信じて疑わなかった。
 半年後に職場に復帰する。ところが…。
 二百ミリ、二百五十ミリ、三百ミリと口径の違う水道管を順に加工していく。二百ミリの作業を終えて、考えてしまう。次は何をするのだったか。以前なら簡単に覚えられた作業が何度も工程表を確認しないと進められない。予定の会議も忘れる。「こんなこともわからんのか」。同僚の言葉に疎外感を覚えた。職場の雰囲気が冷たくなっていく。会社へ行くのが嫌でふさぎ込み、そして退職。
 事故から四年後、後遺症だと医師は言った。高次脳機能障害による記憶障害。事故より前の記憶ははっきりしている。しかし。見た映画の筋をすぐ忘れるようになった。「何度見ても新鮮なんです」。好きなラグビーも八十分間、記憶が持たない。序盤の内容を忘れるから、全然おもしろくない。
 外見は何の変化もない。元気だから、働きたかった。でも症状を打ち明けると、企業は面接を拒否。障害者雇用の斡旋(あっせん)を職業安定所に頼んでも、当時は「身体的にも知的にも障害がない」と紹介状すら書いてくれなかった。障害者の職業訓練校にも入れなかった。
 パートだった妻の朋子さん(四一)がフルタイムで働いた。免許を取った朋子さんの車で週末、家族三人で買い物に行った。新しい店で迷子になる。目が離せない。長男は小学生。不安と焦りだけが募る。「父親らしいことをしてやれているのか」

知ってもらう方が働きやすい

 三年半前、ようやく仕事に就けた。駅前にあるスーパーは自宅から歩いて十分。「これだと迷わなくてすむ」。月の半分ほど出勤し、運ばれてきた商品の点検、整理にあたる。時給は七百十円。メモ帳を作って作業の手順を細かく書き込み、ことあるごとに確認する。  採用時に会社に頼んだ。障害をみんなに知ってほしい。「見て分からないでしょ。やっぱり知ってもらう方が自分も働きやすいし」  いつも使っている軍手の甲に「ID」と大きく赤く書いてあった。出退社時に勤務記録としてIDカードを機械に通さないといけない。「何回も始末書を書いてるんで」。学校から帰ってきた息子を家で何もできず待っていたあの情けなさ。やっと見つけた仕事だ、絶対に手放したくない。

診断基準も浸透せず

「半側空間無視」の障害が出ている人に家の絵を模写するよう指示すると、見ているのに左側だけ描くことができなかった
 「夫の性格が変わってしまった。感情をすぐ爆発させる。障害だと分かっていても、家族は大変だ」「息子が自殺を企て、線路に入ってけがをした」。頭に後遺症を持つ「若者と家族の会」京都支部の約二十人が昨年十一月、京都市西京区の会議室に集まり、思いを京都府や市の福祉担当者にぶつけた。「お金の計算ができない。家への道順も覚えられない。ひとりで外に出せない」と案じる母もいた。  高次脳機能障害は交通事故や脳卒中で脳に損傷の残る後遺症で、記憶障害や注意障害、遂行機能障害などの症状がある。厚生労働省の推定で全国約三十万人。年間一万人の割合で増えている。  症例は人によって複雑に混ざり合う。記憶障害は事故前のことは覚えているのに、新たな記憶が蓄積できない。「半側空間無視」の症例では自分が見ている空間の片側を見落とす。「失行症」は歯磨きしようとしてチューブを口に持って行くなど、手足は動くのに意図した動作ができない。  外見からは障害の特性がわかりにくく、医療や福祉、市民の理解度は低い。これまで身体・知的・精神の三つの障害の範疇(はんちゅう)に入らず、障害者手帳さえ取得できない人も多かった。手帳がなければ障害福祉サービスも受けられない。高次脳機能障害者を対象に、国が二〇〇三年までに実施した調査によると、手帳取得者は半数だった。  受傷や発症の早い段階で訓練や治療を受けることが有効とされる。しかし当事者や家族は障害名も知らず、必要な治療や訓練にも出合えないまま、家族としての接し方も分からずにさまよう。  画像診断で脳損傷が見つからない場合、脳外科の医師は精神疾患を疑う。精神科は「事故に起因するので専門外」などといい、いくつもの診療科をたらい回しにされる例もあるという。高次脳機能の診断基準も浸透していない。  京都支部の会合で、田中明会長(福知山市)は「病院で高次脳機能という言葉を聞かされましたか」と尋ねた。手を挙げた人はいなかった。「私たちは障害名にたどりつく機会があったが、今も知らずに孤立無援の人は多いでしょう」と田中さんは憂える。

投薬で症状を悪化させているケースもある

 高次脳機能障害は〇三年から「精神障害者福祉手帳」を取得できるようになった。しかし、そもそも医療関係者の理解不足のため、診断書が出にくいのが現実だ。会合で熱心にメモを取っていた府と市の職員は「高次脳機能への対応はこれからだ。職員の研修を進めていきたい」と話す。  適切な診療と訓練、診断書発行のできる医療機関の調査▽保健所や福祉施設を対象の実態調査▽拠点病院の設置−田中会長は京都府や市に支援態勢づくりの要望を続けている。  「精神科病院や福祉施設で間違った対応や投薬により症状を悪化させているケースもある。怠けている、自己中心的だ、と周囲から受ける精神的負担も大きい」  高次脳機能障害は「見えない障害」とも呼ばれる。国は専門知識を持った相談員を核として、自治体ごとに受傷・発症の急性期から就業などの地域生活まで一連の流れで支援する方針だが、京都も滋賀もいまだ手だては講じられていない。