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第1部「在宅と自立の挑戦」

(6)介護の枠超える関係を 〜障害者は施設に入らなあかんのか
夜がふけ、酔いがまわる。答えに困った高橋さんがいつものように大きく口を開けて笑った(京都市左京区)
 高橋啓司さん(五五)の車いすを三角暢彦さん(二二)が押し、銭湯に行く。三角さんが下着を脱がせる。脇を抱えて浴場へ。高橋さんは湯船でうまく座れない。胸が湯から出る。三角さんが湯をかけ続ける。
 京都市左京区の学生街の一角。高橋さんは自力でトイレに行けない。はしも持てない。常時介護が要る。壁に名前がかかる介護者はざっと三十人。ほとんどが学生だ。
 三角さんは京都府立大の四年生。「頑張って生きている人」というイメージを障害者に抱いてきた。それを覆された。「こんなくだらねーことするんか?」
 高橋さんはプロレスファンだ。人形や覆面、チャンピオンベルトが部屋にある。わずかに動く左手でパソコンを操り、好きなレスラーに入場曲を作り送った。「使ってください」。断りの手紙が返ってきた。末尾にサイン。「そのサイン見て啓司さん、喜んじゃって」
   生後半年で高熱を出し、後遺症で脳性まひとなった。重度障害児の多くは義務教育を「免除」された時代。高橋さんも学校に行っていない。ずっと家で過ごしてきたから、友だちもいない。
 二十五歳の時に京大生が突然、自宅に来た。「遊びに行かへんか」。外出を支援するという。車いすを押してもらい、電車で大阪へ行った。ビルの屋上から梅田を見下ろす。「こんな世界があるんか」
 学生を通じて、脳性まひの当事者の全国組織「青い芝の会」を知った。会は自立生活を支援し、車いすで街に出ようと呼びかけた。高橋さんは仲間に出会った。
 五年前に母が亡くなり、独りになる。周りは施設入所を勧めた。「障害者は施設に入らなあかんのか。健常者の支えで地域で生きていけるんや」。交替で学生が来てくれるようになった。

学生ら30人、常時支援

 三年前、高橋さんの日常を学生がビデオで撮り「啓司物語」という作品をつくった。大学で上映会を開き、介護者を募る。高橋さんが新入りに説明する。「泊まり介護中は外に出て行かないで」「抱える時は落とさんとって」。言語に障害があり、なかなか伝わらない。聞き返されるたび、体が突っ張ってしまう。
 一方で、昨年夏の上映会では途中で会場を出ていってしまった。首をひねる学生に「もう飽きた。何回も見てるしなあ」と平気な顔で返す。
 「啓司さんはどこかのほほんとしている。その空気に惹(ひ)かれたのかな」。三角さんはこの春、介護業界に就職する。
 不自由な体と生活をさらけ出さないと、高橋さんは生きていけない。平和運動家、画家の卵、隣にいて何もしゃべらない学生もいる。「障害者と健常者はどちらかが何かしてもらうという関係だけではないはずや。友だちみたいに、一緒に酒を飲んだりして」。介護する人、される人を超えた関係を探す。
 コップが二つ、高橋さんの部屋の冷蔵庫に冷やしてあった。自分と学生の分。もちろんビールをおいしく飲むためだ。

「自立」に伴う負担重く

 就学免除、青い芝の会の運動、措置制度から支援費制度、さらに自立支援法への移行…。一九五〇年生まれの高橋啓司さん(五五)=京都市左京区=には、戦後の重度障害者がたどった歴史の一端が刻まれている。
 養護学校は七九年まで義務教育の範疇(はんちゅう)に組み込まれず、多くの重度障害児が小中学校の就学を「免除」、または一定期間猶予となった。京都市教委によると、六一−七八年に市内で義務教育を免除、猶予となった障害児は延べ二千二百九十九人。高橋さんは今も漢字をほとんど知らない。
 七九年に養護学校も義務教育の学校として認められ、就学免除となる児童は激減した。これに対し「障害児を地域の学校から排除するな」という反対運動も全国で起こった。「障害児を普通学校へ」という要望は今も続く。障害児の教育保障と障害児を特別視しないノーマライゼーション社会の相克という課題は残ったままだ。
 脳性まひの人の全国組織「青い芝の会」の運動は七〇年代に本格化した。「自ら脳性まひであることを自覚する」「問題解決の道を選ばない」などを綱領に掲げた。運動で、多くの障害者が実家や施設を出て、自立生活を始めていった。高橋さんも青い芝の会の影響を受けたひとりだ。
 横浜市で七〇年に発生した母親による障害児の殺人事件で、母親の減刑を求める運動に対し、抗議活動を展開。胎児の障害を中絶の理由として認める「優生保護法改訂」への反対運動も進めた。
 「過激な運動」としばしば批判されたが、優生思想を厳しく告発する姿勢は脳死・臓器移植や出生前診断など、生命倫理をめぐる現代の議論にもつながっている。

歩けない人が車いすに乗るのは基本的な人権でしょ

 買い物に行く高橋さんの車いすを押しながら、介護の学生が言った。「自立支援法が始まったらどうなるんですか。啓司さんからこれ以上金取って。歩けない人が車いすに乗るのは基本的な人権でしょ」。現在は補装具として国と市が全額負担している車いすも、四月に障害者自立支援法が施行されると自己負担の対象となる。
 行政当局が福祉サービスを決める「措置制度」に代わり、「利用者の自己決定」を理念に、障害者が地域で生活することを目的とする「支援費制度」が始まったのは二〇〇三年のこと。それからわずか三年。自立支援法の施行で日本の障害者福祉施策は大きく方向を転換する。
 支援法は利用するサービスに応じて原則、費用の一割負担を課す。その「応益負担」が生活を圧迫すると懸念する声は強い。
 京都でもホームヘルプやデイサービスなどの福祉サービスを受けている七千三百人が自己負担の影響を受ける。人工透析など障害に伴う「自立支援医療」では、影響者数一万七千七百人(推定)にのぼる。
 「自立」という聞こえのいい言葉には、大きな痛みが伴う。ある重度障害者が皮肉った。「自立支援法で自立できるのは政府だけだ」
 戦後の障害者運動と障害者をめぐる制度の流れ
1948年 ヘレン・ケラー来日。視覚障害者など戦後の障害者運動が始まる
  同年 優生保護法制定。人工妊娠中絶が認められる
  57年 「朝日訴訟」提訴。結核患者が生活保護変更決定が生存権侵害だと訴える
  59年 国民年金法公布。障害年金と障害福祉年金が始まる
  60年 身体障害者雇用促進法施行
  70年 横浜市で母親による障害児殺人事件発生。以降、青い芝の会の運動が本格化
  79年 養護学校が義務教育の枠内になる。就学免除の障害児激減。反対運動も起こる
  85年 国民年金法改正。障害年金、障害福祉年金を障害基礎年金に一元化
  93年 障害者基本法公布
  95年 精神保健福祉法に改正。保護者、精神障害者の自立と社会参加を盛る
  96年 「らい予防法」廃止
  97年 臓器移植法公布。脳死は人の死かの論議が起こる
2003年 障害者に対する支援費制度始まる
  06年 自立支援法施行