京都新聞TOP > 特集アーカイブ
過去の特集記事

第4部「尊厳ある生と自己決定」

(2)伝えられぬ意思 胸に 〜介護に姉と「○×」会話続く
話しにくくなった言葉のかわりに、手で意思を伝える。また来てもいいですか、と尋ねると、彼女は指で「○」を作った(京都市)
 「あしたのデイケア、行きますか? しんどいからやめますか? 行くならマル、行かないのならバツをして」
 京都市のマンションの一室。ベッドに横たわる妹(五五)の頬(ほお)をさすりながら、姉(六九)が尋ねた。妹はふとんから手を出し、ほっそりとした指で「○」を作った。
 「デイを休むと言ったことがない。楽しくて、好きなんです。細い体のどこからその頑張りが出てくるのか」。水分補給の紅茶を妹の口元へ運び、姉は笑顔を見せる。
 神経難病の症状が出始めたのは五年前だった。書くうちに文字が小さくなっていく。よく転倒した。歩くこと、飲み込むことがだんだんと難しくなっていく。三年ほど前から話しづらくなった。ひとりで姿勢を保てず、横になるか、車いすで過ごす。近くに住む姉の介護を受けながら、それでも妹はひとり暮らしを続ける。
 発症したころ、堀川病院(上京区)のケアマネジャー四方志津子さん(四六)は妹から「自炊したい」という願いを聞いた。「マルバツで答えを選びながらも『自宅で過ごしたい』と懸命に表現された」。入院のたび、施設入所が検討されたが、決まって「もう少し在宅でいきましょう」という結果に落ち着く。
 ホームヘルパー、訪問看護、通所のリハビリとデイサービス、訪問マッサージ、ショートステイを組み合わせて、四方さんはケアプランを作った。姉を助け、女性の暮らしを支える。

未来へ「私は奇跡を信じる」

 「世界で初めてこの病気を治した人になる」。妹がそう言ったのを姉は覚えている。それが「私は奇跡を信じる」に変わった。
 介護に疲れ、姉は思わず口にしたことがある。「あんたを残して逝くわけにいかへん。一緒に死のうか」。妹は胸元で手を合わせ、小さく首を振った。「姉ちゃんを犯罪者にしたくないって」。姉を思いやり、負担を少しでも軽くしようと、介助作業に合わせて動かない体を懸命に動かそうともする。
 就寝前。うつむき加減の顔をしっかりとあげて妹は待つ。化粧水を含ませたコットンで、姉がとんとんと顔をたたく。香りがほんのりと広がる。「お肌、しっとりしたか、自分で見てみ」。妹が指であごをなでる。
 デイサービスからの帰り、姉に促され、送迎車に手を振った。施設や自宅で介護スタッフと別れ際のハイタッチも欠かさない。「いるだけで存在感がある」と二十四時間対応の在宅支援診療を担う医師垣田さち子さん(五八)は言う。
 妹は一月ごろから尿が出にくくなり、看護師が導尿している。五月の連休明け。介護用連絡ノートに張られたメモ書きを見て、垣田さんはハッとした。姉の字で「今、一番やりたい事は?」と書かれた横に、震え、重なってはいるが、妹の文字が読み取れた。
 〈トイレに一人で行けるように〉
 「彼女は自ら何かをしたいという強い意思を持っていた。私たちは十分にわかっていなかったのかもしれない」
 「マルバツ」で返事をする方法だと、受け身でしかない。伝えられない思いをたくさん抱いて妹は生きている。

食べられなくなる時来たら…

末期がんの画家藤田西洋さんの病床のスケッチブックから
 神経難病の妹(五五)=京都市=に発語の障害が出てから、姉(六九)はかすかな声や顔の動きを見逃さないよう、必死に寄り添っている。介護に当たる中、姉は妹の意思を確かめるのに二者択一で尋ねる方法を思いついた。
 イエスならマル、ノーならバツ。Aなら指を一本、Bなら二本。手を握り「Aなら力を入れて」という方法もできる。ホームヘルパーや訪問看護師、デイケアやデイサービスのスタッフにもすぐに広まった。妹は尋ねられたことにはっきりと答えを送る。五月にショートステイに行くかどうか聞いた時には「×」が出た。理由を聞くと「あそこはな、あそこはな…」と言って言葉が途切れた。理由は分からなかった。
 今年一月。感染症で高熱を出し、入院した。病院は合併症や介護を支える高齢の姉への配慮から、一人暮らしより安全にリスク管理のできる病院の療養型ベッドという選択肢を用意した。「家がいいならマル、入院の方が安心ならバツを」。妹の指は「○」を作った。
 そのとき、もう一つの問い掛けは妹の耳に届かなかった。誤ってものを気道に飲み込んでしまうと肺炎の危険性もあるため、病院は将来的に栄養を摂るチューブを直接胃につける「胃ろう」をどうするか、姉に尋ねた。姉は兄弟のそろった場で相談した上で断った。
 妹のケアマネージャーの四方志津子さん(四六)も、在宅支援診療する医師垣田さち子さん(五八)も戸惑った。「胃ろうのことを十分に分かっているのだろうか」。食べることができなくなる時が来たら…。四方さんは「お姉さん一人に考えさせるのではなく、介護に携わる関係者も集まり、周りがきちんとサポートできることを伝えて一緒に考えたい」と思っている。

病の先「たずねるのは酷」

 姉は言う。
 −妹はいずれ自分で判断できなくなるかもしれない。でも今、病の先のことを本人に告げ、決めさせるのは酷なこと。その時に直面したら、わたしの考えも変わるかもしれない。七十歳を目前にして、自分の体力に不安もある。ショートステイに行っていて留守の妹の家に立ち寄った時、空いたベッドを見るでしょう。いるべき場所にいるべき人がいない寂しさ。ショートから帰ってくるとうれしそうにしている。わたししかいない。体力が続く限り、行こうと思ってます。
 本人は何を思っているのだろう。
 お話を聞きたい。しんどかったらバツを出してください。OKならマルをお願いします。
 妹の答は「○」。
 今、伝えたい、話したいことがありますか?
 「○」
 それはどんなこと、と聞こうとして言葉に詰まった。マルとバツでは答えられない。ぴったりこれと思う問い掛けができなければ、彼女は思いを伝えられない。テレサ・テンを好きだと聞いていた。
 テレサ・テンで好きな歌は何ですか? 今から曲名言いますね。
 傍らで姉が「どの歌やったかな。なあ一緒に歌おう」と口ずさむ。♪窓に西陽があたる部屋は…。少し遅れて妹の細い歌声が聞こえてきた。