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第4部 尊厳ある生と自己決定

(3)生きたい 願いかなわず
介護用品も真っ赤なレイもそのまま残る。妻が亡くなって半年。老老介護を続けた大西太一さんは「介護する側のことも思いやってほしい。それが患者のためになる」(京都市山科区)
 一昨年のクリスマスに撮った写真がある。真っ赤なドレスの女性二人がフラダンスを踊っている。息子夫婦や孫が居間の介護ベッドを囲む。ベッドの女性のふとんの上には造花のハイビスカスのレイ。鼻のマスクで判然としないが、女性の表情はほほ笑んでいるように見える。
 京都市山科区の大西好子さんは当時七十三歳だった。趣味のフラダンス発表会へ急ぐ途中に転倒し、進行性の神経難病・筋委縮性側索硬化症(ALS)と診断されて二年。全身が動かなくなり、寝たきりになっていた。一時間ごとのたん吸引や寝返りの介助は要ったが、まだ食べることはできた。
 息子たちは独立し、離れて暮らす。夫の太一さん(八〇)がひとりで介護にあたった。自身、介護保険制度で要介護度1と判定された身。訪問ヘルパーなど公的介護の派遣時間を出し渋る保健所や短期でも入院に難色を示す病院とも交渉した。疲れが腰にきて、眠れない。目まい。トイレに行くにも手すりにすがる。「最初は抱きかかえて介護したが、そのうち自分が先に逝くと思った」
 妻は入院を嫌がった。しかし太一さん自身が倒れてしまわないよう、二カ月に一度、二週間ほど入院させざるを得なかった。毎日通い、夜は付き添い人を雇った。その付き添い人が「ナースコールを取り上げ、外でたばこを吸っている」と妻に聞かされ、押しつぶされそうになった。
 わたくしますますいきるがんぼうが、つよくなってきました ようしがんばるぞ74さいのべっぴんさん
 話すことを失った好子さんは、七十四歳でパソコンを習い始めた。キーボードを打つ指の力はもうなく、わずかに動く筋肉で五十音表の上を走るカーソルから文字を選ぶ重度障害者用の意思疎通ソフトに取り組んだ。
 けんこうなときはきづかなかったさまざまなことが はっぱいちまいにたいしても、いとおしさをかんじて ゆういぎにいきていきます
 昨年十月。好子さんは息がますます苦しくなった。「死に方を考えた方がいい」と医師に言われ、泣いた。「どんな形でも生きたい。孫たちの成長がみたい。一分一秒でも長く生きたい」。しかし救急車は呼ばれず、人工呼吸器も装着することなく、亡くなった。

疲労の夫 今ならもっと…

 夫は今、ひとりで暮らす。造花のレイが片付けられないまま部屋に残されていた。
 「今だったらもっと妻にやってあげたいと思うが」。太一さんは突然、戦時の話を始めた。満州にいた時、仲間がリンチで叩き殺された。戦病死で処理され、上官は代わりはなんぼでも来ると言った。極限状況だったが若かった。生き延びた。
 「健康な時はいい格好が言える。疲れると感情が変わる、顔に出る。相手も遠慮する。人を幸せにするには自分が幸せでないと。介護する人を大切にして、平静に患者にあたれるよう、環境をつくってほしい」
 週一回、泊まり込んで介護にあたった好子さんの実弟葛城貞三さん(六七)=大津市=は今春、立命館大の大学院に入学した。「無念の死」と姉を思う。その言葉を義兄に言ったことはない。医師の支援のあり方、福祉サービスの量と質、生きたい人が生きられない現実をどう変えられるのか。根本から学びたい。義弟の研究のため、太一さんは妻のカルテを取り寄せて送った。

呼吸器つけて。家族の願い

末期がんの画家藤田西洋さんの病床のスケッチブックから
 山本幸子さん(五七)とはこの四月に初めて会った。
 私、ストリート・ダンスで踊ってるんです。大阪ではちょっと有名。オバちゃんばっかりのチームで、コンテストで入賞してね。ポッピングという筋肉の動きで見せるジャンルがあるんやけど。でも夫は嫌がって。俺は筋肉が動かなくなるのにって。
 関西学研都市近郊の住宅街。食事介護や着替えやすい服のアイデア、園芸用品も活用した介護の工夫の話に明るい気持ちにさせられた。
 筋委縮性側索硬化症(ALS)の夫毅さん(六一)は隣の部屋で眠っていた。病は進み、まぶたと目だけが動く。呼吸は苦しくなっており、危篤状態だった。人工呼吸器を付ければ長く生きられる。
 定年の年にALSを発症した夫は、ぎりぎりまで出勤を続けた。歩くこと、食べる力を徐々に奪われながらも、娘三人と北海道やイタリアへ出かけた。「歯が抜けたら入れ歯を入れる。息が苦しくなったら人工呼吸器を使う」。そう語ってもいた。
 二十四時間介護の状態となっても、幸子さんと娘はケアの態勢を整えた。行政にも粘り強く交渉。重度障害者の介護に戸惑っていたヘルパーも家族に学んだ。
 夫として、父として助言し続けてほしい。呼吸器を付けて生きて欲しい。そう願った。四月二十二日に決まった長女の結婚式に出席するのが、家族の目標だった。
 今年二月。気管切開のため一カ月入院し、夫の意思が変わった。文字盤から眼で「生き続けるのは嫌だ」と字を選んだ。呼吸器の装着拒否に転じた。
 幸子さんは何度も説得した。「一年のうち三百日苦しくても、全部苦しい日じゃないよ」。しかし夫の気持ちは変わらない。葬儀の段取りも指示した。息がさらに苦しくなり、家族は手動で酸素を肺に送り続けた。
 長女の結婚式には出席できなかったが、毅さんは長いメッセージを贈った。下の娘が時間をかけて文字盤から字を拾った。
 〈早く元気な孫の顔をみせて下さい〉

取材の約束、間に合わず

 結婚式のビデオを楽しんだ二日後。鎮痛剤の投与で夫は昏睡(こんすい)状態になった。
 生きていく手段はあるが、危篤の人を取材し、言葉をかける−重いものがあった。一方で、極限状態だが、部屋には家族の支える力と、この日々が続いていく雰囲気もあるように思えた。「次は結婚記念日まで頑張ろうね」。幸子さんが呼びかける。返事はない。「夫の意思は尊重したいけど、家族は同意していない」
 次に取材を約束していた五月五日。訪ねて、知らされた。「亡くなりました、二日に」。最後まで呼吸器は装着しなかった。
 ベッドも片付けられた部屋が広く見えた。会った時の毅さんは眠っていて、呼びかけても答えてもらえなかったが、部屋の主の不在感は大きかった。
 介護も説得も精一杯やった、二年間ずっと一緒で濃密な時を過ごせたと幸子さんは言う。とともに、最後の入院時の対応で生き抜く希望を夫が失ったことを悔いてもいた。思い出、福祉の足りなさ。四時間近く、彼女は話し続けた。
 遺族の傷に、ただ耳を傾けた。福祉やALSにこれからもかかわりますか? せっかくケアの技術を培ってこられたし…。「難病専門のヘルパー事業所を立ち上げようかと思う」と幸子さんは言った。「でもダンス三昧(ざんまい)になるかもしれないし」