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第4部「尊厳ある生と自己決定」

(5)生きてと言えず寄り添う 〜「言えば彼女は追いつめられる」
 出会いは精神病院の病棟だった。看護師の男性(四五)は病院を辞めた後、患者の女性から相談の電話を受けた。三年前。同い年の二人は京都市で暮らし始める。
 子どものように、手をつないで二人は歩いた。固く握る。車や電車を見れば、発作的に身を投げようとする彼女。重度のうつ病で長く精神病院で生活してきた。強い自己否定の感情と自殺願望が心の底にあった。
 やがて彼女が訴える。チクッとする痛み。がんの再発だった。彼女は一切の治療を拒んだ。
 「生きた方がいい。生きていてほしい」。その言葉が言えない。家族との関係が修復できずに切れ、彼女に寄り添い、身寄りといえる唯一の存在だった男性は、どうしてもそうは言えない矛盾にもがき、苦しんだ。
 「生きろ、治療をしろと言うと、彼女は追いつめられてしまう。うつという病は感情を否定してはいけない。僕は聞くしかない。自分を受け入れられず、苦しみ抜いている人だったから」
 自殺未遂。外科手術の拒否、ホスピスへ行く…。一般病院の診察で医師に「うつのことを言っている場合じゃない。命がなくなる」と言われ、彼女は荒れ、通院をやめた。言葉と思いを丸ごと肯定し、受け止めるしかない。
 僕のために生きていてほしい。言葉にしない男性の気持ちが通じたことがある。彼女は一度、抗がん剤治療を受け入れた。しかし副作用に耐えられず、打ち切った。時間は残酷に過ぎる。手遅れだった。
 昨年。背や胸の痛みがひどくなった。在宅は限界だった。彼女は一般病院への入院を拒み、長く暮らした場所に戻った。
 精神科の病棟。個室に彼女の絶叫が響く。真っ白いご飯、ミカンを床にぶちまけ、踏みつける。感情の波が去ると「ごめんね。どうして私はこんなことをしてしまうんだろう」。優しい彼女は激しい自己否定に落ち込んでしまう。男性は毎日見舞いに通い、病棟の患者さんたちはうらやんだ。

うつ患者・がん闘病 自殺願望 治療拒む

 澄み透る青い冬空が窓から見えた。今年一月。彼女はホスピスに転院した。鎮静剤の投与もあり、穏やかにもうろうとすることが多くなった。男性の名を忘れ、腹水が張ったお腹のためか、産科に入院していると錯覚していた。そして春。精神病院では姿を見せなかった家族も見守るなか、亡くなった。
 「一緒にどこに行ったかな。まあ近所を散歩したり。岐阜の温泉に一度、行った」。気分の波がいい時の彼女の笑顔。幸せだった。「彼女は自分で決めることができた」
 自死と隣り合わせだったがん治療の選択。死にたい彼女を支えた二人の暮らし。長く苦しめられた心の病から、彼女は最後に自由になれただろうか。男性と交際しなかったら、彼女は数カ月でも地域で暮らすことはなかっただろう。
   ◇
 精神科病院の岩倉病院(京都市左京区、五百十床)は終末期の医療的ケアについて、年報にこう書いている。
 〈戦後日本の精神医療の根本精神は閉鎖・収容主義であり、多くの患者さんたちは青春を捨て、人生を奪われてきた。病院はこの人たちに対して、責任を負っているのである〉
 岩倉病院では今年、十人前後が亡くなり、葬儀を行った。家族が誰もこない葬儀もあった。

地域、家族と隔絶の果てに

 手を握った。細い体から痙攣(けいれん)が伝わってきた。
 寝たきりで固まった背を看護師がさする。酸素の吸入を急ぐ。「ごめんね、吸引しますよ」。呼びかけに応じることはない。十五分置きのたん吸引。ゴボッと音がする。痙攣が収まると少し目を細めた。白髪の老女。また激しい発作。体が震える。握った手に感じる力は生命の証しそのものに思えた。
 精神病院の岩倉病院(京都市左京区)には内科合併症を診ている病棟がある。病気で寝たきりとなった終末期の患者のベッドが並ぶ「観察室」がある。
 その向かいの談話室に「端午の節句」の模擬店が並んでいた。月一回のレクリエーションだ。飾り付けは看護スタッフが自宅から調達した。ホットケーキ、パフェ。店員も客も患者さん。「いらっしゃいませ」。にぎやかな声が寝たきりの人のベッドにも響く。
 介護の手を止めず、看護師が話しかける。「若い人が来るとうれしいよね」。老女の目は宙を見つめる。「お菓子が好きだったね」。今はチューブで栄養を補給するが、元気だったころなら今日のレクを喜び、店の前に並んだはずだ。この精神病院でほぼ五十年の歳月を生きてきた。一般の病院とは看護師の思い出の量が違う。
 統合失調症で入院していた長い歳月、老女と家族とのかかわりは薄かった。体調の悪化を連絡の途絶えていた家族に伝えると、手紙が来た。「はやく死んでくれ」。冬でも半袖で過ごす老女はその時、泣いた。
 青春を病で奪われ、社会から隔離され、病状が軽くなっても、退院できない人が精神病院で暮らす。偏見。差別。地域に戻ろうにも、居場所探しは難しい。長い施設暮らしで、買い物や乗り物も壁となる。その人たちも老い、衰える。
 病棟を開放し、地域への復帰に先進的な取り組みを続けてきた岩倉病院でも「社会的入院」といわれる患者さんがいる。その人たちが病み、死が近づいた時、一般病院も施設も転院を拒む。病院からすれば、身寄りがない患者は、手術や治療方針の同意が得られず敬遠したい。精神症状は身体的な病気の末期で収まっているのに、残る偏見。理解を示し、受け入れてくれるのは、ごく一部の病院だけだ。

精神病院での終末医療

 寝たきりで意識がないお年寄り。進行性の神経難病の患者さん。行き場のない人が長く社会から疎外された末、ここで人生の終わりを迎える。何かをなじりたい、震えるような感情がよぎる。観察室の高齢男性と話すと、困難な発語で「外に行きたい」とつぶやいた。
 患者さんが亡くなった時、岩倉病院では病棟のほかの患者さんにも知らせる。身寄りのない人、あっても遺骨の受け取りさえ拒む家族がいる。長期入院だった患者さんの葬儀を病院で行い、親しかった患者さんが悼む。
 人生の大半を岩倉病院で過ごしたある患者さんの病状が悪化し、余命がわずかになった。看護スタッフが何度も家族に手紙を出し、電話をした。「一度お見舞いにきてあげてほしい」。頼みこんだが、家族は病院に来ることもなく、患者さんは亡くなった。
 家族は病院の近くのお寺で葬儀をした。参列した看護師らは患者さんの写真を渡し、思い出を伝えた。家族から手紙が届いた。「娘のころに会っただけですが、写真を見て昔が懐かしく、一度でも会いにいけば良かったと悔やんでいます」。そう記されていた。看護スタッフは思い知らされた。家族にも事情があり、深く葛藤(かっとう)していた。
 長期入院していた患者さんが転院した後、人生の終わりに「岩倉病院に帰りたい」と言っていると聞かされるたび、病院のスタッフは複雑な思いを抱く。精神疾患の患者さんを地域社会へ、その思いがかなわなかった悔い。精神病院でターミナルケアをする矛盾。長くここで一緒に時間を過ごした人への愛情。
 みとりの場でもある観察室に、模擬店からにぎやかな声が響く。穏やかで静かな最期とは違うが、それはわが家の日常のように心地よく聞えているのかもしれない。