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第5部「この街で支え合う」

(3)五感で意思くみ介助 〜「熱血教師」の再出発
「きょうは撮影があるのでいい顔してるな」。篠原さん(左)は笑顔で謙吾さんに語りかける(京都市伏見区)
 模造紙を前に、書道に挑む。脳性まひで知的障害の残る小中謙吾さん(二三)をひざにのせ、介助スタッフの篠原文浩さん(四一)がその手を支える。語りかけても言葉は返ってこない。「よっしゃ、このプルプル具合がおまえの味や」。二人で「愛」という字を書き上げた。
 重度心身障害者が通う京都市伏見区の「シサム」。二人の出会いは、アイヌ語で「隣人」を意味するこの施設の開設より数年さかのぼる。
 篠原さんは中学教諭だった。荒れた学校で殴り、殴られての生徒指導。精神的な疲れでうつ病を発症しながらも、人権教育に力を注いだ。
 九年前。長女が生まれた。重い心臓病。医師から告げられた。「手術の結果、重とくな障害が残る可能性もある」。幸い手術はうまくいった。同時に自分の教育観が揺らぐ。「生徒には人権教育を言っておきながら、障害者のことを何も知らない」。自ら希望し、養護学校へ移った。
 車いすの子どもたちが元気に学んでいる−そんなところだと思っていた。入学式。担任として謙吾さんに出会った。生まれて間もなく脳炎になり、重度の障害を負う。時折たんをからませ、苦しそうにする。篠原さんは表情をこわばらせ、体が固まったまま、何もできなかった。
 一対一の授業。先輩教諭からたん吸引も教わり、要領を覚えていった。「ありがとう。楽になったよ」。入学式から半年近く。もの言わぬ謙吾さんがやっとそんな表情を見せてくれた。

謙吾がここまで引っ張ってくれた

 「なんでうちの子だけ差別するのか。もう結構です。ふたりで暮らします」。謙吾さんの母が必死の思いで篠原さんに抗議してきた。
 三年間担任を務めて、卒業前の秋。この時期、養護学校では進路を決める実習として、福祉施設を見学する。謙吾さんにはたん吸引や胃への直接栄養注入といった「医療的ケア」が欠かせない。これらは原則的に医師や看護師にしか認められていないが、この養護学校では先進的に教諭も行っていた。解釈次第で違法行為ともなる。「施設で医療的ケアはできない」。それが分かっていたので、篠原さんは実習の予定を組まなかったのだ。
 我が子がいつでも通える場所をつくりたい。母は仲間とバザーを始め、一年後、他の保護者とも力を合わせて「シサム」の開設を後押しした。
 卒業式の終わった養護学校では、篠原さんが後悔の念にかられていた。「教師として謙吾の行く場所を切り開いてやれなかった」。生徒とのかかわりに熱心になるあまり、学校側との意見の対立も生まれた。思い悩み、うつ病が悪化する。シサムから誘いがあったのは、そんな時だった。
 謙吾さんと再会した。「何を言おうとしているのか、今でも正直分からない」。みけんのしわ、目の動き、体の緊張。篠原さんは五感を使って意思をくみ取ろうとする。思いが伝わったのか、時折、謙吾さんが何とも言えない笑顔を見せる。
 午後三時半。送迎の車に乗り、謙吾さんが自宅へ帰る。見送る篠原さんは「謙吾がいなかったら、僕はうつ病でどうなっていたかわからない」と振り返る。「謙吾がここまで引っ張ってくれた。本当に僕が支えられている」。一見強面(こわもて)の元熱血先生は車が見えなくなるまで手を振り続けた。

福祉現場では実施可否あいまい

 重度障害者が地域で普通に、安全に暮らすためには、クリアしなければならない課題が多くある。その一つが「医療的ケア」にかかわる問題だ。
 医療的ケアとは飲み込んだり、呼吸したりすることがうまくできない人のため、チューブで栄養を注入したり、たんを吸引したりする行為をいう。家族は日常的な介護として担っているが、原則的には「医療行為」とされ、医師や看護師にしか認められていない。
 しかし医師や看護師が四六時中付いていることはできない。この医療的ケアを誰が、どこまで担えるのか。
 二〇〇四年度からは養護学校などの教員も条件付きで行えるようになった。それまで訪問教育や保護者の付き添いで授業を受けていた子どもたちも、単独で通学できる道が開けた。
 この問題が注目されるようになった背景には、医療の進歩がある。京都市の養護学校関係者は「小児医療や救急医療のレベルが上がり、重い障害を持って生まれた子どもが学齢期を迎えられるようになった。児童生徒の障害は年々重度化し、医療的ケアのニーズも高まっている」と話す。
 一方で、現在でも福祉施設で職員が医療的ケアを行うことの可否はあいまいなままとなっている。家族の介護負担を減らし、障害者が地域で暮らしていくためには、医療的ケアのできる受け皿づくりが欠かせない。

社会で担う「医療的ケア」

 重症心身障害者が通う「シサム」(京都市伏見区)では看護師の指導の下、介助スタッフも医療的ケアを担う。シサムの平田義センター長は「法的にはグレーゾーンだが、医療ではなく生活支援行為と位置付けて行っている」と話す。独自にガイドラインをつくり、医師の指示と家族の同意に基づいて行っている。
 京都、滋賀の福祉、医療関係者は一昨年「医ケアネットワーク近畿」を立ち上げた。日常的に医療的ケアが必要な人が地域で豊かに、安全に暮らしていけるよう、研修や情報交換を続けている。
 代表を務める小児神経科医の杉本健郎さん(五七)は「医療的ケアは問題のほんの表面にすぎない」と語る。個別に異なる病態やニーズを持つ人たちをどのように学校や地域でサポートしていくのか。福祉先進国の北欧諸国などに比べ、障害者が地域で当たり前に暮らしていくための根本的な基盤がまだまだ足りないという。「今の日本は経済的価値を生み出さないものにはお金をかけない、という風潮が広がっている」
 杉本さんは重度障害者が暮らす「第二びわこ学園」(野洲市)の園長でもある。学園の創設者・故糸賀一雄さんは「この子らを世の光に」と提唱した。
 「今、人工呼吸器をつけた人が河原町通を歩けるだろうか。車いすでも通りにくいのに。障害者がもっと街に出られるようにしなければならない。懸命に生きるその姿を見た人は、自分も生きる力をもらうはずだ」と力を込める。重いハンディを背負いながら、地域で当たり前に暮らす。殺伐とする現代社会ならなおさら、そんな人たちの放つ「生の尊厳」の光が求められる。