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8ミリ映写機ウェブ版記録集

戦時中の運動会映像

 1943年、京都市中京区の生祥国民学校で開かれた運動会。リレーや棒倒しの競技のほかに、女児が竹やりのようなものを扱う様子などが映る=動画(1)=。フィルム修復会社「吉岡映像」提供。

映像(1)戦時中の運動会映像


映像フィルムの活用

写真①
写真①
写真②
写真②

 フィルムをビデオ・DVDなどに変換する作業は「テレシネ」と呼ばれる。映写機で映し出した映像を、ビデオカメラで再撮影する。写真(1、2)=京都市上京区の吉岡映像での作業 背景には、各地でフィルムの劣化が進んでいる現状がある。酸っぱい臭いを出す「ビネガーシンドローム」という現象だ。保存状態が悪い条件下のまま30年近くがたつと、ベース素材が加水分解して生じる。主に1950年代から80年代にかけて使用されたフィルムが対象で、臭いの元である酢酸が発生する。柔軟性を持たせるための可塑剤が溶け出し、白い粉が吹いたように見え始める。次第に変形し、粘着性が帯び始める。

 一方で、地域に眠るフィルムを見直す動きは広がりを見せている。

 個人の日常の記録を地域で上映する「ホームムービーの日」もその一つ。アメリカで2003年に始まった。フィルムに託された記憶を継承するために生まれ、10月の第3土曜日に世界中で一斉に行われる。日本で普及を進めるNPO法人映画保存協会(東京都)によると、国内では京都など全国約20カ所で展開されている。

 映画保存協会の石原香絵代表は「フィルムはそれだけ日本の人々には大切な道具として愛されてきたという証しです」と話す。 全く関わりのない他人の映像を見る楽しみはどんな所にあるのか。京都会場の世話人、柴田幹太さんは「映画や報道などでは一番取りこぼされてきたところが映し出される」と語る。

 集まった映像には1978年まで「市民の足」として活躍した市電や亡くなった竹細工職人の制作工程などが残っていた。高齢者には懐かしく、若者には目新しく感じる。両者が同じ空間で追体験することができる場だ。時を重ね、フィルム自体が新たな意味を持つ段階に来ている。

ベトナムに平和を! 市民連合(ベ平連)

写真③
写真③1965年11月、京都市河原町通
写真④
写真④1970年6月21日、国会通用門前
 「ベトナムに平和を」「ベトナムはベトナム人の手に」「日本政府は米国に手を貸すな」-米軍の北爆が始まった1965年の秋、夕暮れの河原町通を、わずか十人ほどのデモが声を上げた。 この年、全国で「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を名乗る団体が哲学者の鶴見俊輔さんや故小田実さんらの呼び掛けで結成された。デモ行進=写真(3)=のほか、米紙に反戦を求める全面広告を掲載。脱走した米兵をメンバーらの家にかくまい、第3国に脱出する手助けをした。

 90回以上にわたり、毎月第1月曜日と定めて開かれた京都べ平連の定例デモは、決まった日時に開くことで、事前連絡なしに一般市民の参加を呼び込む狙いがあった。当時、組織主導型の労働運動や学生運動でない市民運動は珍しく、1年以上は少人数の状態が続いた。だが、活動を支えた鶴見俊輔さんからは「『数が問題ではない。参加者の自立が重要だ』と意義を説かれた」と、当時の京都大生は語る。

 活動を組織に頼らず「この指止まれ」と参加者の自発性にゆだねる方式は「べ平連方式」として広がった。こんなエピソードがある。定例デモで、舞鶴から参加した市民から「地元でもベ平連を結成したいが、どこに届け出ればいいのか」と質問された。メンバーは「届け出は必要ない。3人もいれば勝手に名乗ることができる」と答えた。

 その後、定例デモの参加者が数百人規模にのぼった京都べ平連は、米軍撤退を受け1973年4月に解散した。写真(4)は1970年6月21日、国会通用門前で抗議の座り込みを行う「安保拒否百人委員会」のメンバーが排除され、機動隊員に運ばれる哲学者の鶴見俊輔さん。


【2015年01月03日掲載】