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日系人(下)

米兵との英会話で立場逆転

レモンクリークの日系人収容所
レモンクリークの日系人収容所
バンクーバーで日本食材店を経営する平居さん
バンクーバーで日本食材店を経営する平居さん
戦前の日本人街、パウエル街。滋賀からの移民が開いた「前川鮮魚店」=ニッケイ・ナショナル・ミュージアム提供
戦前の日本人街、パウエル街。滋賀からの移民が開いた「前川鮮魚店」=ニッケイ・ナショナル・ミュージアム提供
カナダの思い出を語る江畑昭男さん(左)と若林喜芳さん=彦根市八坂町
カナダの思い出を語る江畑昭男さん(左)と若林喜芳さん=彦根市八坂町
 4世に語る「ヘストリー」
 バンクーバー在住で父が滋賀県多賀町出身の平居茂さん(77)は終戦後、占領期滋賀の小学校で、いじめに直面した。日本語を話せない悔しさ。視察に訪れた米兵との英会話で、学校での立場は逆転する。

 進駐軍の兵隊さんが「いじめとんのは、どいつや」って。向こうに5人ぐらい立っとったんです。そいつら、俺のこと「ヤンキー、ヤンキー」って言って、頭バーンとしばきよる。兵隊さんにそう言うたら、「OK,OK,I look after you」って言って、その5人に「前出てこい」ってね。ネクストタイムね、兵隊さん機関銃持っとったんですけど、デデデデデって5人を撃つまねしたら、みんな震えあがるどころか、倒れてたですよ。夜、家帰ってきたら、いじめてた子の親や親戚が米やら醤油やら持って謝りにきた。

 おじさんから「呼び寄せ」で1954年にカナダに(再び)来たんですよ。16歳だったですね。アルバータというところで電気も水もガスもない。3年間ランプと井戸の生活。百姓してソーミル(製材所)でも働いたけど本当に貧乏も貧乏でした。

 うちのワイフいつも笑うけど、アルバータいてた時、休みの日に映画観(み)に行きたかったんですよ。冬場、外は零下10~20度。おじさんのトラックの荷台に乗っていくんです。ジャガイモの袋、頭からかぶって、その上から毛布かぶってね。そしたら日本に帰らなかった2世のやつら、いい車に乗って出かけててさ。「くっそー、あいつら同じ日本人のくせに」と思いました。

◇◇

  同席していた江畑重義さん(84)が平居さんに相づちを打つ。「僕は日本式、戦争中のあれで、ブレーン(考え)を押しつけられて」「日本人の評判を落とさないよう努力した」。午後9時半ごろまで明るいバンクーバーの初夏。穏やかな海は琵琶湖を連想させる。

 江畑さんも日系2世。戦前、祖母に連れられ兄弟4人で彦根市八坂町に戻った。両親はカナダに残ったが、戦争が始まると収容所に送られた。「仕送りが止まって、兄弟が協力して働いた。両親と連絡が取れず、どうしているか心配でした」

 軍国少年で、夢は陸軍士官。親が敵国にいることが不利にならないかと不安だった。戦後は京都や大津の米軍キャンプで働いたが、57年に渡航、両親や兄弟とカナダで暮らす。

 長兄の昭男さん(88)だけが八坂町に残り、今も生活する。「こっちで家族がいたから」。戦時中は予科練として鳥取の海軍基地に配属。「飛行機に乗る上級生を見て、早く自分もと思っていたなあ」。出身国カナダは敵国になったが「特に意識はしなかった。当時は日本のために戦うのは当たり前だった」という。

 カナダ生活経験者は減った。「アメリカ村」は遠くなりつつある。

 八坂町にある滋賀県立大助教の上田洋平さん(38)は2年前、自宅として購入した彦根市大藪町の古民家から大量の移民資料を見つけた。手紙や写真、公文書など100点以上。バンクーバーには移民史を展示する「ニッケイ・ナショナル・ミュージアム」があるが、滋賀に同様の施設はない。上田さんは「滋賀でも伝承を」と資料の活用を考える。

 バンクーバーに出た平居さんは食料品チェーンや、さつま揚げ工場の経営者に。孫の通う学校に呼ばれて話すことがあるという。「4世の子たち、昔のヘストリー(歴史)を知りたいんです。その時代どうだったのか。ジャパニーズだけがなぜ、戦争で財産も取り上げられ、強制収容されたんか話すんです」


【2015年6月26日掲載】