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日系人(上)

【Japanese】日本人/日系人/日本語

 「日系」は国籍変更した移民とその子孫という語感が強いが、海外の国籍制度は多様で現地に帰化せず日本国籍を持つ人もいる。

ユーはどっから来たんか

カナダの日系人収容所の子どもたち (1945年ごろ、後列左2人目が平居さん)
カナダの日系人収容所の子どもたち (1945年ごろ、後列左2人目が平居さん)
 明治時代から琵琶湖の水害などを背景に、滋賀県の湖東地域住民がカナダへ出稼ぎに行った。1910年のカナダ在留県人は滋賀が1854人、県別で最多だったという。製材所や商店で働き、仕送りした。太平洋戦争で財産を没収され日系人収容所へ。滋賀へ引き揚げた人も、敗戦で貧しい日本からカナダへと「帰る」人もいた。

 カナダ移住が多かった彦根市八坂(はっさか)町はかつて、英語混じりの「八坂言葉」が交わされ、近隣から「アメリカ村」と呼ばれた。仕送りで潤った面影を古いが豪勢な白壁の町並みにとどめる。カナダと二重国籍だという80代に、何人も出会う。

 「戦争の時はまだ子どもで、ニューデンバーのキャンプ(収容所)におったな」。八坂町の若林喜芳さん(82)は「デンヴァー」と流ちょうに発音する。「日本は地図で見たら小さい国。戦争には負けるだろうと思っていたよ」

 隣の開出今町も移民が相次いだ。宮崎八重子さん(82)は若林さんとバンクーバーで同級生。「生まれた年はナインティーンサーティースリーだから。昭和でいうと何年かしら」。レシピを書きとめる時にも、salt sugerと手が動く。

 カナダを身近に語る湖東の高齢者たち。方言に7800キロの距離を超え、滋賀とカナダの歴史が交錯する。バンクーバー在住の平居茂さん(77)にインタビューした。湖東なまりと英単語が混じる語り口を記録する。

◇◇

 お父さんは日本生まれ(滋賀県多賀町)で、16歳ごろにカナダに来てソーミル(製材所)で働いてました。おじいさんたちもカナダにいましたが、みな戦争が始まる前に日本に帰った。私ら家族は戦争中もカナダに残ってました。

 戦争が始まると両親、弟ともみなレモンクリークの強制収容所に入って、戦争が終わるまで5年間いました。私は4歳~7歳ぐらいかな。山の中の寒いところでしたね。家がバラックで自分らで作ったんです。それができるまでは4カ月ぐらいテンス(テント)で暮らしました。

 戦争始まって苦労したみたいに言われるけど、子どもだったから喜んでました。毎日がピクニック気分やったもん。子どももいっぱいいて。配給があって十分食べられたしね。

 終戦後(しばらくして日系人は)どこへ移動してもよろしいってなったんですよ。その時にお父さんは日本に行くと申し込んだんです。確か九つの時でした。父の実家の多賀町に帰ったんですけど、一番悪い時に日本に着いた。食べ物もなかったしね。「お前何しに帰ってきたんか」って、みんな冷たかった。

 全然日本語わからんかったんです。便所なんて(言葉を)知らんしね。授業も全然。アメリカン、アメリカンっていじめられてね。でもいい先生がおられてね。「ミー(me)はミーは」って言ってたら、その先生、「ミーちゃん」って俺のことかわいがってくれたの。

 あの時分、進駐軍が学校に来たんですよ、どう授業さしとっか、と。兵隊さんが「ユーはどっから来たんか」って聞くから、「バンクーバーや」って、ここぞとばかりに英語でしゃべった。「お前、カナダから来て、みんなにいじめられてないか」って言うんで、「いじめられてる」って答えたら「いじめとんのは、どいつや」って。


【2015年6月26日掲載】