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(中)画家・藤波晃さんに聞く

さまざまな出会い、刺激

虚無感から社会へ目

六曜社の思い出を語る藤波晃さん(京都市中京区)
六曜社の思い出を語る藤波晃さん(京都市中京区)
六曜社店内に飾られている藤波さんの作品(中京区)
六曜社店内に飾られている藤波さんの作品(中京区)
 六曜社(京都市中京区)の店内には、画家の藤波晃さん(81)=大津市=の作品が3枚掲げられている。創業した故・奥野実さんが30年ほど前、旧知の藤波さんに依頼した。近くで生まれ育った藤波さんは高校時代から六曜社に通っていた。

 「京都生まれの京都育ち。高校は堀川高校。私服で単位制。授業は1年も3年も一緒に受ける。今と違って大学みたいで自由だった。朝、六曜社でコーヒーを飲んでから学校に行ったもんだった。

 戦前のフランス映画が好きで、河原町近辺の映画館にほぼ毎日通っていた。堀川高の先生が『いい映画来てるぞ、昼から何の授業や。サボって見てこい』なんて会話ができた。イノダ(コーヒ)に行くやつもいた。その連中、いまだにイノダに行ってる。一度気に入ったら、ずっと一つの場所に行く。これが京都人の特徴や」

 相席で見知らぬ客同士が会話を交わす文化が息づいていた六曜社で交友が広がる。

 「他大学の学生やら先生やらと知り合いになる。(京都帝国大出身の哲学者である)矢内原伊作さん(※1)なんか毎日いて親しくしていただいた。ほかにも作家の堀田善衛(※2)や水上勉(※3)がいたりする。

 こちらは若いから、連れて行く女の子も20歳前後。中年の大学の先生や文化人は、店に来る女の子に関心がある。するとね、そうした人たちは連れの女の子に向かって一生懸命しゃべるわけや。また始まったと思うんやけど、フランス文学やパリに行った話、ピカソに会った話とか、普段なかなか聞けない情報を聞けた。何人かで盛り上がると場所をかえて飲みに行く。女の子を口説くのが文化人の楽しみの一つだった。女の子も今と違って知的な子が多かった」

 11歳で敗戦。父は外地で亡くなった。藤波少年は混沌(こんとん)とした河原町の裏通りで、生の哀感を垣間見た。

 「裏寺の辺りは闇市が立った。みんな飢えていた。家では母親がしんどそうにしているし、いつも街をさまよっていると、万引のうまい少年と知り合いになった。そいつはビスケットのかけらや黒砂糖をくれた。私はよう万引せなんだけど彼と付き合ってると世の中の裏側が見えた。

 ある日、きれいな女の子に出会った。15、16歳やったかな。『あんた、どこのぼんや』って話しかけてきた。部屋に遊びに行くと、米軍の缶詰からチョコレートまでいっぱいある。缶詰を開けてくれるとコンビーフ。喜んで食べた。うまかった。彼女は大阪で空襲に遭って家族を失い、はだしで京都まで歩いてきたらしく、『死んだ弟にあんたが似てる』と優しくしてくれた。

 『今日は用事があるから来たらあかん』って言われたのに退屈やったんで訪ねて行った。階下からなんぼ呼んでも返事がないから部屋の前まで行くと、ふすまの隙間から真っ裸のアメリカ兵が彼女にのしかかっているのが見えた。小学5年でそんな体験をしたから、いつでも心の奥底に、どうでもええわっていう、ある種の虚無感が染みついた。物事にこだわらず、かといって無気力になるのではなく、社会の海原に目が開かれていった。その欲求に応えてくれたのが六曜社だった」

 六曜社での出会いから、さまざまな刺激を受けてきた。

 「大学時代には、京都大の劇団『創造座』の団員たちが店にやって来て舞台装置の制作を頼まれた。設計、組み立て、いろいろした。1年間担当している間、1日も大学に行かずに留年したがいい経験になった。

 街の喫茶店がどんどん減っていることが寂しい。六曜社も、お客さんは観光客ばかりになってきた。映画館が立ち並び、ウインドーショッピングを楽しむしゃれた河原町が、今や安物の街になってしまって最低や。文化人が会話を楽しむサロン文化が失われてきてしまった。外国を訪れた際、カフェでコーヒーを飲めばその国のことがよく分かるという。昔ほどのにぎわいはなくなってきたけど、京都の文化水準を象徴しているともいえる六曜社はこれからも健在でいてほしい」

 ※1 矢内原伊作(1918~89年)。東京大総長を務めた矢内原忠雄の長男。京都帝国大時代に小島信夫、加藤周一と同人誌「崖」を創刊。京都帝大卒業後、海軍予備学生として南方を転戦した。彫刻家ジャコメッティとの交友でも知られた。同志社大教授などを務めた。

 ※2 堀田善衛(1918~98年)。評論家としても知られた。51年、朝鮮戦争発生直後の新聞社を舞台に知識人の不安を描いた小説「広場の孤独」と「漢奸」で芥川賞を受賞した。代表作に「ゴヤ」「スペイン断章」「方丈記私記」など。

 ※3 水上勉(1919~2004年)。福井県の貧しい宮大工の家に生まれ、9歳で京都市の相国寺瑞春院に預けられた。立命館大を中退。行商、代用教員などをしながら文学修業した。61年に「雁の寺」で直木賞受賞。主な作品に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」など。



【2015年09月17日掲載】