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拷問の残像

恩返しはかなわず
亡くなった養父母の思い出を語る林隆さん。脳裏から過去は離れない(京田辺市の自宅)
 満州が崩壊し、日本人は避難を続けていた。終戦時に五歳だった林隆さん(六七)=京田辺市=は「暗闇から突然、ソ連軍機が現れた。逃げ惑う人たちを狙い、容赦なく爆弾を落とした。気付くと、辺りは遺体ばかりで、一緒だった両親がいなくなっていた」と語る。
 通りがかった日本人女性に連れられ、見知らぬ中国人の一家に預けられた。その夫婦は苦しい生活をしていたが、養父母として林さんを大切に育てた。「学校に行かせてくれ、どんな時でも後ろ盾になってくれた」
 日本軍が去った後も中国では混乱が続いた。共産党と国民党との対立が激化し、一九四六年六月に国共内戦に至った。林さんが住む村は共産党の管轄下となり、地主の土地を農民に分け与える土地改革が断行された。
 この時、養母がスパイ容疑で共産党の八路軍に投獄された。地主階級の出身で、敵国だった日本の子どもを育てていたからだ。「養母は拷問を受けた。銃の薬きょうを指と指の間に挟まれ、手足を縛り上げられた。その上、宙づりにされた。養母はひたすら私の身を案じていた」。数カ月間の投獄の末、疑いは晴れたが、婦人病を患い四十九歳で亡くなった。林さんは写真を見つめながら「いつも私の味方だった。命がけで守ってくれた」とつぶやいた。
 養父もまた、文化大革命の最中にスパイ容疑で拷問を受けた。日本に永住帰国する直前に亡くなった。林さんは「養父母は無実の罪を着せられた。私が日本人の子という、ただそれだけの理由。いつか恩返しをしたいと思いながら、ついに、かなわなかった」
 八六年五月、四十六歳の時、家族四人で日本の土を踏んだ。身元判明していたが、年老いた両親は経済事情から帰国に同意しなかった。「できるだけ迷惑を掛けないようにと思い、働きづめの日々。日本語を覚える余裕すらなかった」
 最初に勤めた電器部品工場は時給六百円。次に働いた物流会社は時給八百円から千円程度。どれだけ働いても、普通の暮らしができなかった。小学校の校務員の時だけ収入が安定していた。退職後は、生活保護に頼るしか道がなかった。「生きるだけの暮らしで、余裕はまったくない」
 ケースワーカーから出費は厳しくチェックされる。養父母の墓参りをしようと思っても、中国に滞在している間は日割りで生活保護が減額される。長男が就職した時には、支援を受けるように言われた。林さんは「中国では日本人だと差別され、日本では中国人だと差別された。断ち切りたい。子どもたちに過去を背負わせるのは、絶対に許さない」と厳しい表情を見せた。
 新しい支援策の中身も分かってきた。「生活保護から抜け出せ、念願の墓参りにも行けるが、謝罪はなく悔しい。でも、仕方がない」。言い聞かせるように語った。

(おわり)

【2007年7月24日掲載】