京都新聞TOP > 政治・社会アーカイブ > どうか、元気で
インデックス

(1)戦死した兄から母へ 妹へ

誰よりも泣いて、そしてあきらめて
馬場きくさん

 〈また弾着が近くなりました。この手紙を書く間も三回頭から砂をかぶりました〉〈今度こそ僕も生きては帰れまいと思います〉

 激しい戦闘の様子と死の覚悟を伝える文面が、淡々とした筆致で便せんを埋めている。

 「2年たったら帰ってくるから、と笑顔で行ったのに。どんな思いで、最後の手紙を書いたんか…」

 日中戦争が泥沼化していた1939(昭和14)年、ノモンハンの戦いで双子の兄、高橋克己さん(享年23)を亡くした馬場きくさん(93)=彦根市=はぬれた目頭をぬぐった。

出征時の言葉に悔い

双子の兄・克己さんが戦地から母親に送った手紙=円内は高橋克己さん

 克己さんは37年に徴兵された。「天皇陛下が頑張ってこいということや」と誇らしげだった。やんちゃな三男坊。愛嬌(あいきょう)があり、皆から好かれた。「町内中がおめでとう、とお祝いする中で、母だけがつらそうでした」

 出征の日、見送る人々で埋まった彦根駅。涙をこらえる母の志(し)はさんの肩を、克己さんは「泣いたらあかん」と両手で抱いた。万歳の波の中、志はさんは唇を震わせていた。

 「でも、克ちゃんの方もあの時の母親の姿が忘れられへんかったと思います」

 最後の手紙は「母上様へ」と書かれ、出征時の言葉を悔いるような文が並んだ。

 〈お母さん、(戦死の)報(しら)せが来た時は、泣いて下されるなとは言いません。誰よりも一番泣いて下さい。そして一時も早くあきらめて下さい〉

 手紙が途絶え、不安になったきくさんは、「手足がなくなりだるまさんのようになっても帰ってきて」と神社へ毎日拝みに行った。

 「私も軍国少女でしたし、克ちゃんを『お国の誉れやね』と笑って送り出した。戦争がどんなものかも知らんと。火炎を噴く敵の戦車に、日本は油袋を携えて飛び込んで行く無謀な戦いやったと後で聞き、何が名誉の戦死やと悔しくて…」

 数カ月後、戦死の知らせが届く。気丈だった志はさんだが、その後はすがるように手紙を取り出しては、自分の肩をさすり、『あの子の温(ぬく)みが今もここにある。匂(にお)いがする』と泣きぬれた。しわくちゃになった手紙は、きちんと虫干しし、また丁寧に折りたたんだ。

 克己さんは、きくさんにも何度か手紙を書いた。「きく子殿」とかしこまり、父急逝後の母親孝行への感謝、結婚準備への心配り、そして、こう記していた。

 〈三人の兄の力で必ず幸福に導きます。何卒(なにとぞ)あなたも御体大切にしてその日の来るのをお待ち下さい〉

 だが、次兄椙(すぎ)太郎さんも44年に南方で戦死。復員した長男昌夫さんも体調を壊して間もなく他界した。中国での戦争体験で心を病んだという。頼りにした息子を全員亡くし、志はさんは生きる張り合いを失っていった。

 克己さんの最後の手紙の日付から、10日でちょうど70年になる。幸せだった時の家族の写真を見つめ、きくさんはつぶやいた。

 「親が一生懸命、大事に育てたのに、紙くずのように殺されてしまった。一体、何のためやったのか。今でも分かりません」

 満州事変から15年にわたる戦争で、引き裂かれた人々は手紙で家族に近況を知らせ、婚約者の安否を気遣った。戦後64年目の夏、そんな手紙やはがきを今も大切にする人たちを訪ねた。色あせた文面から、戦争の過酷さと相手の無事を祈る思いが立ち現れてきた。

ノモンハン事件
 1939年5月、旧満州(中国東北部)とモンゴルの国境付近で起きた日本軍(関東軍)とソ連軍の武力衝突。関東軍は大本営の方針に反して攻撃を続け、ソ連の近代兵器の前に死者約8千人(厚生労働省調べ)を出す大敗を喫した。だが独断による暴走、根拠のない精神主義、敗戦の隠ぺい、という軍部の体質は反省されず、2年後の太平洋戦争に突入、随所で玉砕を繰り返した。

【2009.08.10掲載】