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(2)戦死した兄から 弟へ

もう少しの頑張りです
村尾孝さん

 透けそうなほど薄い戦死公報を、京都市北区の村尾孝さん(80)は古びた手提げ金庫から取り出した。

 本文はわずか2行。

 〈村尾貞蔵 昭和十八年一月八日 ソロモン群島ガダルカナル島マーラ川下流ニ於(おい)テ死亡セラレ候〉

 「こんなもの、たった一枚でね。国の命令で、未来ある若者の命を奪っておいて」

帰ってくる 願い叶わず

村尾貞蔵さんの戦死公報と、孝さんの元に届いたはがき(円内は貞蔵さん)

 村尾さんの兄、貞蔵さんが26歳で亡くなった南太平洋のガダルカナル島では、上陸した3万人超の日本兵のうち2万数千人が落命。米軍の追撃からジャングルへ逃げ、餓死した者が大半だった。

 「遺品も遺骨一つも返らなかった」。戦地から届いた数枚のはがきと写真がかけがえのない形見だ。

 〈フィリピンまでやって来たから、こちらの様子を知らせませう(中略)フィリピン人は日本人にとてもよく似ています。この間も孝そっくりの子どもを見て少々驚きました〉

 1942(昭和17)年春に届いた便りは、庶民の暮らしぶりを描き、のどかな印象が漂う。「家族全員で読んで笑い合った」。学校の教室ではアジアの地図に日本の占領地を示す日の丸が次々とはられ、「みんなが大きくなる頃(ころ)は 日本も大きくなっている」と歌う「子を頌(たた)う」がはやっていた。

 貞蔵さんは、41年7月に出征するまで、島津製作所のレントゲン技師だった。孝さんより11歳年上だったが、手先が器用で、自作のボートを鴨川に浮かべて乗せてくれたり、好きなシャンソンを聴かされて一緒に歌った。

 「楽しい思い出しかない。またきっと帰ってくると信じていた」

 ジャワ島上陸後の便りには〈敵前上陸は流石(さすが)にチヂミ上がりました〉としながらも〈自分の倍もある大きなオランダ兵が降参したのは不思議〉と余裕があった。それが42年6月のミッドウェー海戦の大敗を機に一変する。

 所属する部隊がすぐさまガダルカナルに転戦を命じられる。その後のはがきでは〈随分色々な所を廻(まわ)って来ましたがどこへ行っても元気ですから〉と負けん気を見せながら、自らを納得させるように、こう書いた。〈もう少しの頑張りです〉

 「家族を心配させまいとの思いなのか、それとも本当に何も知らなかったのか。読み返すたびに、悔しくて、悲しくなる」

 戦死の報が届いて約2年後。孝さんも満州(中国東北部)の東京農業大開拓農場へ「鍬(くわ)の戦士」として赴く。だが、敗戦直前に侵攻してきたソ連軍に追われ、山中約500キロを逃避行。衰弱死した人々の屍(しかばね)が野ざらしになっている中をさまよい歩き、学友96人のうち58人が命を落とした。

 「戦争では人が人でなくなる。私が生還したのも単なる偶然」

 公務員を退職後、立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)でボランティアガイドを始めた。多くの戦争資料が並ぶ中、憲法9条の条文を記すタペストリーの前に立った。

 「美しい言葉だが、作られたのは残酷な歴史があったから。行間には戦争で苦しんだ人々の汗や血や泥がにじんでいるんです」

戦死公報
 軍人や軍属の戦死を証明する公式書類。日中戦争初期には、戦死の状況や弔意を上官が記した書簡を出すことも多かったが、戦局の悪化に伴い減少した。所属部隊が玉砕したり、安否の判明が難航した場合は、実際の戦死から1年以上たって遺族に通知されることもあった。

【2009.08.11掲載】