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| 早川敏子さん |
〈皆様御元気デスカ。小生モ相変ラズ達者デスカラ御安心下サイ。皆様ト一緒ニ一日モ早ク楽シク食事ヤ仕事ヲスル日ノ早ク来ル事ヲ神様ニ御願シマショウ。敏子モ学校デスネ〉
収容所から届いたはがきは5通。そのほとんどは穏やかな文面で、抑留の過酷さを感じさせない。
表にはソ連軍の検閲印が押されていた。「本当のことは何も書けなかったのでしょう。家族を安心させたかったのだと思います」
奪われた7年 埋める
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| 父・早川太郎さんが家族に送った手紙。収容所から届いたはがき(手前2枚)には、ロシア語で「軍検閲済」の四角いスタンプが押されている(円内は太郎さん) |
京都市中京区に住む早川敏子さん(68)の父・太郎さんは1943(昭和18)年、満州(中国東北部)に出征。終戦間際の45年8月、ソ連の捕虜になり、5年間、主に中央アジア・ウズベキスタンに抑留された。
ウズベキスタンには日本人約2万5000人が抑留され、重労働を強いられた。水も食料も満足に与えられず、夏は45度を超える灼熱(しゃくねつ)の大地で800人以上が亡くなった。
〈想像も出来ない暑さです。(中略)一日も早く帰りたい〉
はがきの一行にすべてが凝縮されていた。
1950年、太郎さんは帰ってきたが、出征時に1歳だった敏子さんは8歳になっていた。「写真でしか見たことがない父でしたから、最初は怖かった」
太郎さんは、敏子さんとの空白を埋めようと、友達のように接した。一緒に風呂に入り、映画に誘った。敏子さんが中学生になり、「オトーチャン」と心から呼べるようになった時、抑留中の体験をふいに話した。
「“つるし上げ”って知ってるか」
収容所では、ソ連当局の心証を良くするため、抑留者同士が「共産主義の敵」を密告し、非難する「つるし上げ」が行われていた。
「パン一切れのためにさえ、日本人同士で憎み合う。耐えられなかった」。吐き捨てるように言った。
抑留は太郎さんの体もむしばんだ。帰国から3年後の42歳で吐血、一時は危篤状態に陥った。手術で胃をすべて摘出し、62歳で世を去った。「抑留で命を縮めた。もっと父の話を聞くべきだった」。敏子さんは悔やむ。
抑留前、太郎さんは戦地から妻・雪子さんら家族に60通近い手紙を送っていた。雪子さんは亡くなる前、手紙を棺に入れることを望んだが、敏子さんは「できなかった。父のことをどうしても知りたかった」
〈いつも敏子のユメを見て困ります〉〈敏子が動物園に行ったとの事、愉快な一日を過ごした事と思ふ〉〈敏子よ 元気で 俺(おれ)の帰りを待って居てくれ〉
雪子さんが没した2003年、初めて読んだ手紙には、敏子さんが知らない父がいた。以来、手紙は何度も読み返している。先月からは、父の足跡をメモの形で書き始めた。
「戦後、父はたくさんの思い出を作ってくれた。私が本当の『オトーチャン』と呼べる父になってくれたからこそ、余計に、戦争と抑留が奪った7年間、父がどこでどう生きたのかを知りたい。少しでも父との空白を埋めるために」 シベリア抑留 第2次大戦末期の1945年8月、満州などで旧日本軍の将兵や軍属が、参戦したソ連軍の捕虜となり、抑留された。「シベリア抑留」と総称されるが、中央アジア、モスクワ近郊などソ連各地に収容所があった。日本政府は抑留者数を56万1000人と推定し、5万3000人が死亡としているが、抑留者数を60万人以上とする説もある。
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