京都新聞TOP > 政治・社会アーカイブ > どうか、元気で
インデックス

(4)戦死の父から母へ 母から父へ

壮健にて御国に御奉公
鶴岡貞子さん

 戦地の父からのはがきを娘の鶴岡貞子さん(73)=宇治市=が初めて目にしたのは、死後55年たった夏だった。1994年、母こと美さん(享年85歳)が亡くなり、仏壇の下などから見つかった。「家族の誰にも言わず、戦地から送られてきた遺品とともに大事にしまっていたようです」

行間に本心探した娘

宮崎欣二さんが戦地から家族に出した手紙。「軍事郵便」「検閲済」の印が押してある
(右側は表面のコピー、円内は欣二さん)

 〈拝啓、御家内御一同様にはお正月を目前に迎えられますます御壮健にてお暮らしのこととお察し申し上げます〉

 36歳の父、宮崎欣二さんはこう書き出していた。

 〈壮健にて御国に御奉公致しております〉

 〈御父上様に御酒を買って上て下さい。子供にも何か買ってやりなさい〉

 父不在の家族を思いやる言葉が続いた。38(昭和13)年12月9日付、「南支」(中国南部)からの軍事郵便だった。半世紀以上たって「はるかなる国から届いた伝言」。貞子さんは緊迫感のない文章の行間に、父の本心を探した。

 手紙の届く3カ月前、欣二さんは満州へ派兵された。そして、手紙が届いて半年後の39年5月14日、「南支」の地、広東占領作戦での戦闘で左肩下貫通の銃創を負い、翌日息絶えた。37歳だった。この作戦では、突撃した兵士の半数が死んだ、という。

 貞子さんは「母から『お父さんは家を出る間際まで末っ子のあなたを離さなかった』と聞いていた」。父親似といわれるが、父の記憶はない。ただ残るのは、父の遺骨が還ってきた日の光景。無言で音のない奇妙な行列が川べりの一本道をひたすら進み、背中越しに母の震えが伝わってきた。思い返せば、野辺送りの列だった。3歳の体に鮮烈に刻まれた。

 母の形見の中に、母から父への返信があった。詳しい近況を書けない父とは対照的に、3枚の便せんに細かな文字が並んでいた。

 〈さだ子は「お父ちゃん、兵隊さん」といってお部屋のあなた様の大きな寫真(しゃしん)を指して喜んで居ます〉

 元日付の手紙では、〈どうかお体にご注意遊ばされ−〉と夫を気遣っていた。「夫婦の情が通っていて、強いきずなを感じる」

 手紙とともに、戦地に携えていた2枚の写真や腹帯があった。出征直前の家族写真で、父の横に小さな貞子さんがいた。もう1枚は見合い写真なのか、着物姿の母が緊張した面持ちで写っていた。血の付いた腹帯には千人針と13枚のお守りが入っていた。自ら縫った腹帯を、母はどんな気持ちで見たのか。胸が締め付けられた。

 「母は父についてあまり語らなかった」と貞子さんはいう。ただ、晩年覚えた短歌に詠んだ。「南支にて夫戦死の広報受く断腸の念今も忘れじ」。わずか8年間の夫婦。待ち続けた妻としての母を思った。

 父の手紙を読んで以来、貞子さんは父の本当の姿を探し始めた。父は『天皇陛下万歳』と言って死んだと聞いていた。出征の折、自分を最後まで離さなかった父と、どこかつながらない。父の最期を聞くため、戦友を訪ね歩いた。戦友は「お父さんは『どんなことがあってもわしは死ねん。家に残した乳飲み子と年寄りがどうなる、這ってでも帰る』と叫んでいた」と明かした。やっと父に会えた気がした。

 「日本が満州などで行った蛮行を『御国に御奉公』としか書けなかった父の気持ちを思うとやりきれない。手紙に書けなかった無念の思いを伝えるのが、私の使命と思っています」

軍事郵便
 出征した兵士が自国にあてて出す手紙。また、自国から兵士に発送される郵便。日清戦争(1894年)前に制度化された。はがきや切手は一定配給され、ほとんど無料だった。検閲があり、任地の季節や気候など軍事情報にかかわる言葉、戦意高揚に反する文字は墨で消された。

【2009.08.13掲載】