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(5)捕虜の男性から婚約者へ

君の健康を祈っている
植村一彦さん

 「PRISONER OF WAR」(戦争捕虜)。英語が印字された定形便せんは、京都市中京区の父親にあてられている。

 〈内地では今頃櫻(ごろさくら)が咲いてゐる頃でせう。実に三年見ない花ですね〉

 東山区の植村一彦さん(87)はフィリピン・ルソン島で終戦を迎え、米軍の捕虜となった。便せんは収容所で支給され、1946(昭和21)年春に書いたとみられる。

収容所で帰国焦がれ

植村さんがフィリピンの捕虜収容所から京都の婚約者にあてた手紙。故国や婚約者への思いがつづられている

 植村さんは京都に婚約者も残していた。父親同士が親しかった縁で、見合いをした。入営後の面会で無事の再会を約束し合った。父親に手紙を出して数カ月後、婚約者から初めてはがきが届く。彼女は植村さんの両親と帰国を待ってくれていた。

 〈毎日どんなにしておくらしでせうか?想像もつきません。くれぐれもお体お大切に〉

 植村さんが44年2月に日本を離れて以来の音信。「当時は『好きです』なんて軽々しく言わない時代だが、そりゃ、うれしかった」

 植村さんがフィリピンに派遣されたとき、戦況はすでに切迫。「われわれは死にに行ったようなもん」。最初に駐留したレイテ島には米軍が上陸し、日本軍は激しい攻撃にさらされ、ほぼ壊滅状態に。植村さんは経理部の甲種幹部候補生となりルソン島に移っていたが、中部バギオを撤退すると、北へ山間部の敗走を余儀なくされた。婚約者の写真も失っていた。

 部隊の最後尾で米軍の迫撃砲におびえた。坂道を登って休息中、発射音が響いた。たばこの火を消そうと前かがみになった瞬間、周りの5、6人が吹き飛ばされた。食料は尽き、草をかじった。寝る前には湯にわずかな塩を垂らして飲んだ。朝。「ああ、生きてる」

 武装解除は玉音放送の約1カ月後。「大命により」だから恥もない。米軍に連行されたが、「うまいもんが食える」と安堵(あんど)感が勝った。ところが、最初は重湯ばかり。戦犯容疑で連行される者がいたとか、労役で絞首台を作らされたという噂が流れた。本当に生きて帰れるのか、不安はぬぐえなかった。

 そんな状況で届いたのが先の婚約者からのはがきだった。植村さんは便せんの両面にえんぴつで返事を書き、捕虜郵便に同封した。

 〈永らく音信不通の為(ため)戦死してゐるものと思ってをられたでしょう〉〈不思議と命永らえ内地帰還の日をひたすら待って居(お)ります〉

 植村さんは収容所の事務を手伝わされ、帰国の順番が後回しにされた。長崎県・佐世保港に復員し、京都駅に降り立ったのは47年の1月3日だった。

 「死んでてもおかしくなかった。ほんまの運やと思います」

 婚約者の照子さん(84)とは復員後結婚し、60年以上連れ添ってきた。最近、捕虜時代の手紙を納戸で見つけたが、入院中の照子さんは見せていない。「今読むと恥ずかしい」と植村さんがいう手紙の結びは、照子さんへの焦がれる思いが込められていた。

 〈君(と呼ぶのをあへて許して戴(いただ)きたい)の健康を祈ってゐる次第です。きっと帰ります。必らず内地の土を踏みます。どうかそれまで…〉

フィリピン侵攻
 日本軍は日米開戦と同時に米国が実質統治していたフィリピンを攻撃。マニラを占領し、軍政を敷いたが、1944年10月から米軍の反攻に遭い、各地で敗退を重ねながら終戦まで抵抗した。日本の総兵力63万人のうち約8割が戦死した。米軍の資料などから、捕虜は約1万2千人と推計される。

【2009.08.14掲載】