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(6・完)特攻死した兄から弟へ

只語れるはうそのみ
佐野蓊さん

 〈休暇の時は何も真実を語らず、只(ただ)語れるはうそのみ、何たる不孝ぞ。しかし軍機上致し方なし、黙って訣別(けつべつ)の外なし。やがてわかることならん。わが生存中の我侭(わがまま)切にお詫(わ)び申す。父母に先立つは長男として申し訳なけれども、大君の為(ため)なれば何の父母であり、兄弟なるか。胸中に神州の曙(あけぼの)を画き、勇んで敵艦船と大和魂との激突を試みん〉

 遺品として戻ってきた兄の日記には、家族への最期の言葉が記されていた。

 「軍に禁じられ、兄は自分が特攻隊員であることすら家族に言えなかった。別れさえ満足にできなかった」

 亀岡市大井町、佐野蓊(しげる)さん(79)は悔やむ。5歳上の兄・元(はじめ)さんは1945(昭和20)年8月11日、人間魚雷「回天」に乗り、西太平洋・パラオ諸島北方で米輸送艦に突撃、戦死した。終戦わずか4日前、18歳での死だった。

 「幼いころ体が弱かった兄は医者を目指して勉強に打ち込んでいた。なのに、あんなむちゃな物に乗せられて…」。蓊さんは今もやりきれない。

運命を胸に家族託す

佐野元さんの日記と遺書(円内は元さん)

 元さんは旧制園部中5年だった43年末、海軍航空隊に入隊した。

 〈元気で如何(いか)なる困苦も克服し立派なる海軍々人となりますよ〉

 奈良県の航空隊から届いたはがきには、快活な言葉が並ぶ。

 だが、悪化する戦局は運命を変えていく。44年8月、海軍は決戦兵器として回天を採用。元さんは大津島(山口県)の基地に転属し、魚雷搭乗員の訓練を受け始めた。

 〈最後の最後まで全力を傾注致す覚悟〉

 手紙にも決意めいた言葉が増えていく。

 兄弟の別れは唐突にやってきた。45年6月10日夜、自室で眠りこけていた蓊さんは揺り起こされた。1年ぶりに帰省した兄がいた。「蓊。乾パン食うか」

 「『食え食え』ってしきりに勧める。いつになく優しかった」

 蓊さんは翌日、基地に帰る元さんを駅まで見送った。坂を登り、家が見えなくなろうとした時、元さんから突然「分かったか、分かったか」と言われた。

 蓊さんは兄の言葉の意味が分からなかった。しかし、尋常ではない思いだけは伝わり、胸が詰まって何も言えなかった。

 2カ月後、遺品だけが帰ってきた。兄が「分かったか」に込めた家族への思いを、蓊さんは日記を見て初めて知った。涙で読み進められず、何度も何度も読んだ。「死ぬと告げられず、兄は苦しんだはず。知っていれば1分でも長く引き留めた」

 戦後、農家を継いだ蓊さんは病気がちな父を助けて、朝から晩まで田畑を耕し、教職も掛け持ちして生活を支えた。兄が逝った時、まだ小学生や赤ん坊だった4人の弟、妹を大学まで行かせた。

 元さんは出撃前、日記の他にもう1通、遺書を残していた。

 〈予(よ)が見た所では、(蓊は)男らしく立派になってきましたね〉

 「兄にすれば、私はやんちゃで心配な弟だった。でも、今なら言える。あなたの死を背負い、あなたの分まで僕は精いっぱい生きました、家族を守りました、と」

回天
 大型化した魚雷に爆薬1・55トンを搭載し、操縦者ごと敵艦に体当たりする1人乗り特攻兵器。全長14・75メートル、最大直径1メートル。潜水艦上から最大6隻が発進した。水防不十分、座るのがやっとの魚雷内で、潜望鏡を頼りに敵艦に向かった。搭乗員106人が戦死・殉死した。大半が20歳前後の若者だった。確認された戦果は給油艦など撃沈2隻、損傷5隻とわずかだった。

【2009.08.15掲載】