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子ども編

耐えた、忍んだ 浮かび上がる疎開生活

 疎開中の子どもの安否を大人たちが気づかい、子どもは親元を離れたさびしさをこらえて鉛筆を走らせた−。64年前に終わった戦争の最中にやりとりした手紙を大切に保管する人たちがいる。イラスト入りの楽しげな手紙の文面にも戦時中の世相が色濃く反映されていて、当時の子どもを取り巻く暮らしぶりが浮かび上がってくる。

京の様子伝え、絵で励まし <斎藤のおぢさん>

南丹市八木町の瑞雲寺に集団学童疎開した京都市下京区の有隣小の児童に、保護者が送った絵手紙(コピー)

 京都市下京区の川村佳一郎さん(72)は、紙芝居のような大きな紙に書かれた絵手紙のカラーコピーを大事に持っている。手紙は「皆さんへ」で始まる。

 〈疎開地で心身共に鍛錬できる皆様こそ日本の第二国民です。それでこそ大東亜戦争に勝ち抜くことが出来るのです〉と、日の丸や男の子の顔の絵とともに書かれている。

 川村さんたち有隣小の児童は1945(昭和20)年3〜10月に八木町(現南丹市)に集団学童疎開し、6つの寺に分宿。3年の川村さんら28人は瑞雲寺で生活し、そこに保護者の一人「斎藤のおぢさん」がたびたび絵手紙を送ってくれた。

 子ども好きだったようで、慣れない暮らしの児童たちを彩色した絵手紙で励ました。文面からは、日増しに京都市内が緊迫していく様子もうかがえる。

 〈京都も毎日の様に空襲警報があります〉〈全市一斉に防火訓練があり皆さんのお父さんやお母さんが健闘せられました〉

 川村さんたち同窓生は98(平成10)年、53年ぶりに寺を再訪した際、絵手紙が大事に保管されてきたことを知った。川村さんは「絵手紙はわれわれの宝物。食糧事情が悪い時分にみんなで共同生活したことを思い出します」と語る。

検閲、さびしいと書けず <100通のはがきの束>

写真上=集団学童疎開中の手紙を大切に保管してきた奥村要さん(右)と那須田みのりさん(京都市上京区)
写真下=疎開する娘に父親が持たせた宛先の見本帳

 京都上京区の奥村要さん(76)は西陣小6年で京都府加悦町(現与謝野町)に集団学童疎開したころの手紙をたくさん残している。はがきだけでも約100通。家族とのやりとりだけでなく、親せきや友人からのはがきも取ってある。

 両親あてには〈昨日は大江山へ行軍でした〉〈毎日元気で作業にはげんでおります〉など、気丈な文章が並ぶ。京都に残った友人は〈友だちがいないのでまっています。要君の夢もみます〉と、さびしさをつづった。

 奥村さんが疎開先から出したはがきにはすべて先生の印鑑が押されている。内容をチェックした印だ。開封口を〈検閲済 大日本帝国逓信省〉のシールでふさいだ封筒も残っている。「当時は、疎開はつらいとかさびしいとか書けなかった」と奥村さんは語る。

 奥村さんの妹で4年時に一緒に疎開した左京区の那須田みのりさん(73)も「ダイコンがいっぱいの中にお米粒が少し入っていますと書いたら、先生に書き直しさせられました」という。

 手紙とともに大切にしてきたのが、小さな帳面。父親が幼い娘のために自宅や親せき宅の住所の書き方を示した「見本帳」だ。「これで表書きを書いたらいいと、渡されたのを覚えています」

 西陣小の疎開児童にとって気がかりだったのが建物の強制疎開。空襲時の延焼を防ぐ狙いで堀川通などを拡幅するために、近隣家屋が取り壊された。

 〈みのりさんも自分の家のことを心配されて、夜中にむっくり起きあがって泣き出された(中略)お家の夢を見られたとのことでした〉と、先生が親にあてた手紙もある。

 2人は手紙の束を前に「おなかはすくし、家に帰りたいし、疎開はつらかった。強烈な印象が残っている」と声をそろえる。

ほのぼのした中に戦時色 <出征中の兵隊さん>

小学生だった高林順子さんに、知人男性が戦地から送ったはがき

 宇治市の高林順子さん(75)は、京都市北区の衣笠小1年だった40(昭和15)年、出征中の知人男性からはがきをもらった。順子さんや男性などが似顔絵で描かれていて、ほのぼのとした印象だが、文面は〈元気で支那兵をやっつけてゐます〉と、戦時色そのもの。「憲兵検閲済」のスタンプが押されている。

 「兵隊さんから手紙がもらえてうれしかった。小学校に入ったばかりだったので、分かりやすく伝えようとしてくれたのでしょう」

 終戦後、無事に復員したこの男性が高林さんの自宅を訪れた際には、父親ら家族と出迎えた記憶がある。

 高林さんは「戦争の片りんがうかがえる絵手紙を伝えたい」として、絵手紙を宇治市歴史資料館に寄贈した。

【2009.08.16掲載】