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(8・完)故郷の「時」押し進めたい

工場間借り 第2の創業 列島中に勇気もらった
「一歩一歩、前へ」。一部ラインを借り受けた染色工場で社員の作業を見守る相沢さん(中央)=11日、京都市伏見区

 温かく、大きな手が待っていてくれた。「無事で本当に良かった」。あの日から9日後。仙台市からたどり着いた衣類製造会社経営の相沢謙市さん(41)の顔を見るなり、京都市伏見区で染色工場を営む原利雄さん(51)は両手を握って涙ながらに繰り返した。思わず、むせび泣いた。

 「ここを自由に使ったらええ」。商品製作を依頼するようになって3年。原さんは、Tシャツの柄を印刷するため工場の一部を貸してくれるという。仙台の自社工場は倒壊した。震災前の受注分の納期が迫っていた。染色工場は繁忙期。「甘えられない」。製造を一部引き受けてもらうにとどめた。「ほかもあたってみます」。つてを頼りに府内の工場5カ所を回った。

 「阪神大震災の時は東北の人たちにお世話になった」「今回の地震で友人が被災した」。いずれも快諾してくれた。それでも製造は追いつかない。再び原さんに頭を下げた。「だから言ったやろ」。武骨な笑顔が涙でぼやけた。

 26メートルにわたり印刷台が並ぶ2本のライン。仙台から呼び寄せた社員3人が、原さんから提供を受けた染料を版に載せていく。営業で東京に何度も足を運ぶ相沢さんも作業着姿で手伝う。「第2の創業期」。この試練から逃げない。「京都のみなさんの助けが前を向く勇気をくれた」

 創業10年目での震災だった。後輩の美術教師と2人でTシャツの柄の印刷機1台から始め、売り上げを年々倍増させてきた。車1台分の古い倉庫を使った工場は150坪にまでなり、東京に営業事務所を構えた。従業員25人。「10年もった」。妻と感慨にふけっていた直後だった。

 地震による催しの中止や延期が相次ぎ、注文のキャンセルも多い。従業員の多くを一時解雇せざるを得なかった。「つらい決断だった。でも、必ず戻ってきてもらう」

 地震で仙台の自宅は家具が倒れ、住めなくなった。人工透析が週3回必要な母もおり、家族7人を車に乗せ、着の身着のまま故郷を後にした。仕事で付き合いのある山形県や新潟県の工場経営者から食料やガソリンの提供を受けながら、堺市の親類宅を経て京都市に逃れて来た。「日本列島を縦断するように助けをもらった」

 3月末に一人、仙台に戻った。若いころからサーフィンで訪れている沿岸部は、車がひっくり返り、建物の跡すらない。まるで集中爆撃を受けたようだった。言葉を失った。故郷の時計はまだ、あの時で止まったかのようだ。

 自分が時計の針を動かす原動力の一つになりたい。被災地を応援するチャリティーTシャツの依頼も舞い込み始めた。「一日も早く立ち直って、みなさんに恩返しがしたい」。周囲から差し延べられた手をぎゅっと握り、前に進もうとしている。=第4部おわり

 第4部「帰郷の日まで」は社会報道部の目黒重幸、樺山聡、山本旭洋、本田貴信、写真映像部の水澤圭介、山本陽平、松村和彦が担当しました。ご意見、ご感想をお寄せください。電子メールはminna@mb.kyoto−np.co.jp ファクスは075(252)5454。

【2011年4月21日掲載】