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(5・完)失聴受け入れ前向きに

音を越える
布花を教える片山さん(右)。聞き取りにくい声を文字や手話がつなぐ(向日市寺戸町・乙訓聴覚言語障害者地域活動支援センター)
 「はじめまして」。片山ひろみさん(五二)=向日市=を訪ねた。だが、片山さんはとまどった表情を見せた。
 片山さんは不自由なく話せるが、四十代で難聴になり、今はほとんど聞こえない。手話を学んでいるが、いつもメモ帳を持ち歩いている。筆談で取材に応じてくれた。
 中途失聴の原因は分からない。ある時、耳の疲れや違和感、耳鳴りを感じ、次第に聞こえなくなった。家族とは身ぶりや文字で会話をつないだが、友人や知人には「無視された」などと誤解を受けるのがつらかった。
 「なんで私がこんな事になったのだろう」。友人と出かけることもなくなった。特技を生かして開いていた布花教室も「生徒に迷惑をかける」と中断。長電話や音楽を楽しんでいた過去を思い返してばかりいた。
 医師には身体障害者手帳の交付申請を何度も勧められた。だが「障害」という言葉に抵抗があった。聴力検査すら嫌だった。
 「くよくよしても何の解決にもならない。前だけ見ていこう」。そう思い至るまでに二年。手帳を申請し3級の認定を受けた。市難聴者協会に入り、協会で赴いた旅先では、記憶を頼りにカラオケを久しぶりに楽しんだ。生徒の理解もあり、布花教室も再開した。
 障害を受け入れ、同じ悩みを持つ仲間と出会ったことで世界はぐっと広がった。聞こえないことは不便で、今も不安はある。だが「自分から周囲に働きかければ、悪いようにはならない」。
 重い難聴の市瀬規美子さん(三九)=京都市右京区=は手話にほとんど触れずに育った。難聴学級と地域の学校に通ったからだ。発声訓練を受け、唇の形で言葉を読み取ることができる。
 地域の学校に通ったのは「聞こえる子どもと一緒に育てたい」という母の強い意向からだった。学校では、手話を使う相手も必要性もなかった。
 だが、短大卒業後に就職した銀行では同僚たちとなかなか打ち解けることができなかった。同僚は難聴に気を配ってくれるが、かえってそれが重荷になった。
 そんなとき、市難聴者協会の会合で、声と手話を交え楽しげに話す人たちに出会った。仲間に入りたい。そう思い、手話を学んだ。
 「唇の形を読むのは文字をたどるようで、感情を読み取りにくかった」。手話は表情や手の早さに感情を込めることができる。口話にない、新しい世界が開けた。
 「手話で相手の気持ちも分かる。遠慮なく話せる。今から思えば、読話の相手は話を短くし、難しい話を避けていたのかもしれない」。
 銀行は二男の出産を機に退職。四年前から市聴覚言語障害センターで働く。ろう者の共同作業所が主催する野菜市の販売担当で、手話で仲間と冗談も言い合う。
 母は今春、急逝した。手話を覚え始めたころ、「発声訓練をしたのに」と少し悲しい顔をした母。「手話で自信が持てるようになった。今の私の姿を見たら、お母さんも喜ぶと思う」

手話=世界を拓く

【メモ】中途失聴の原因は、ストレスや病気、事故、薬の副作用などがある。発声は不自由しないことが多いが、会話が聞こえないため、精神的なショックや失聴後の生活に慣れる負担が大きい。京都聴覚言語障害者福祉協会はろう者や難聴者、中途失聴者を対象に生活支援や相談、仲間づくりなどを行う拠点施設を、京都市聴覚言語障害センター(中京区)など、府内に十三カ所設置している。

【2007年8月11日掲載】